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Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

11/20 Salla sutta

お経の紹介です。「箭経」(せんきょう)と読みます。

 

574 1 徴もなし。予告もなし。ここ(現世)に生きる〔我ら〕人の命は、惨めなもの。儚いもの。それは苦しみに縛られたもの。

 

575 2 生まれた者が死なずにすむ、その手立ては何もなし。「老いて老いて、死に至る」、これこそが命あるものの法則。

 

576 3 たわわに果実なら、夜明けとともに落ちるやも。生まれた人も同じこと。死の恐れといつも隣り合わせ。

 

577 4 陶工の作る土の器が、最後はみんな壊れるように、人の命もそのように、最後はみんな壊れます。

 

578 5 子供も大人も、愚者も賢者も、みんな死力に牽かれっぱなし。みんな最後は死で終わる。

 

579 6 死に敗れたこの人が、他界に逝ってしまうのに、父でも息子を救えない。親族も親族を救えない。

 

 580 7 ごらん。親族が見据え、泣き叫ぶ中、一人また一人、人は死に牽き去られる。屠場に牽かれる牛のように。

 

581 8 やはり、生きものは老いと死とから攻め撃たれてばかり。だからこそ、生きものの有様(法則)を観てとって、賢者は決して悩まない。

 

582 9 どこから来てどこへ行くのか、その人の道をあなたは知らない。〔死後と生まれる前の〕両辺を正観しないで、あなたは意味もなく憂う。

 

583 10 泣き叫んで、もし何か得られるものがあるとすれば、それは頭が狂うこと。そして自分を傷つけること。

 

584 11 泣き崩れても、嘆き悲しんでも、こころの寂静は得られない。その苦しみは増すばかり。体はますます損なわれる。

 

585 12 身はやつれ、肌の色艶は褪せてしまう。自分で自分を損ないつつ、それ(泣き崩れること)によって、死者の供養にもならない。悲しむことはムダなだけ。

 

586 13 悲しみを断ち切らなければ、さらにさらに苦を受ける。亡き人を嘆く人は、悲しみの力に囚われてしまった。

 

587 14 業に従って死んでいく、他の人々をご覧なさい。死の影が近づいて、今ここで打ち震える生きものをご覧なさい。

 

588 15 ああやって、こうやって、と人は考えるけれど、実際はその通りにはなりません。「なくなる」という事実はそういうもの。生きものの有様をご覧なさい。

 

589 16 もし百年、あるいはもっと長く人が生きても、〔いつか必ず〕親族と別れます。この世での命を終えて。

 

590 17 それゆえ、阿羅漢から教えを聞いて、悲嘆を克服すべきです。死んだ人、臨終の人を見て、「それ(死)は私にも訪れる」と〔観るのです〕。

 

591 18 住居についた火を水で消し去るそのように、堅固者・有慧者・智者・善巧者なら、湧き起こった悲しみを即座に消し去ります。風が綿花を吹き払うように。

 

592 19 自分の悲泣・希求・苦悩を引き抜いてください。自分の幸福を求めて、自分に刺さった箭(矢)を引き抜いてください。

 

593 20 箭を引き抜けば、涼やかで、こころの寂静を獲得し、一切の苦しみを乗り越えて、悩みなし。涅槃に到るのです。

 (まさか「老病死に勝つ方法」があったとは~ブッダが説く心と健康の因果法則 より)

 

「死」という現象が、生きている上で必ず起こります。それは事実でもあり、真実でもあります。

表現を変えると「現れては消える」「できては壊れる」ということでしょうか?

常に「死」という現象が起こり得ます。だからこそ、緊張感を持って怠けていてはいけない。

いま生きているということも事実ですので、有効的に、また有意義に、充実して生きなければ意味がありません。

しかし、ただいくら充実して生きていても、やはり「死」は起こります。誰でも死ぬのです。

ですから、有意義・充実というのは、どういうこなのでしょうか?そこが重要なところです。

 

そこから「生きる」という研究が始まります。先生はお釈迦様です。

「生きる」ということが具体的にどういうことなのか?その理解が深まれば、同時に有意義なことが発見できます。

そして、本当に充実して生きるという意味も謎解けると思います。

チャレンジしてみることをお勧めします。

 

Etena sacca vajjena patu tvam ratanattayam.

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