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Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

11/12 礼拝・三帰依・慈悲の冥想とは

冥想会などで唱える礼拝・三帰依・慈悲の冥想について

(平成12年1月22日 かやの木会館講演「死んだ常識と生きた非常識」より抜粋)

 皆さまが冥想会や講演会に参加されると、冥想や講演が始まる前に、先ず講師の方と一緒にパーリ語で、「仏陀を礼拝いたします」という意の礼拝、「仏陀仏陀の教え(真理)・仏陀の道を伝える者である僧(僧団)、の“三つの宝”に帰依いたします」という意の三帰依と、日本語で慈悲の心を育む「慈悲の冥想」を唱えます。初めて参加される方々の中には、何となく抵抗感があったり、多少の戸惑いがある方もいらっしゃるかも知れません。なぜ、このような礼拝・三帰依・慈悲の冥想を唱えるのでしょうか。スマナサーラ長老は、講演の中で以下のように説明されています。

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 「…なぜ私は皆さまに挨移もしないで、突然 『礼拝と三帰依を唱えましょう』 と申しますかというと、それこそが常識だからなのです。それは挨拶なのです。この意味が分かりにくいので説明いたします。

  ここで我々は、釈迦牟尼仏陀の話を聞くために集まるのです。先生はお釈迦さまです。肝心のお釈迦さまが涅槃に入られてここにいらっしゃらないから、仏教を少々かじっている私は、代表にもあたらないが、お話させていただいています。私も皆さま方も一応お釈迦さまの教えをいただく生徒の側にいます。常識というのは、先生に礼をすることが先なのです。学校に行ったら学校の先生が玄関で土下座して生徒に挨拶をするということは、私から見ればちょっとおかしいのです。生徒が先生に挨拶をして、『よろしくお願いします』と言うのが普通だと思います。ちょっと古くさい常識かも知れません。もしかすると今は逆に、先生が土下座して挨拶をしなくてはいけないと思っている現代人がいるかもしれません。仏教は古いものだから昔の習慣で、先に先生に挨拶するようにしましょう。そういうことで、礼拝と三帰依を唱えることは、お釈迦様に対する礼、挨拶なのです。

 次に、『五戒文』を唱える意味です。やっぱりお釈迦さまが厳密に真理を語りました。それを勉強するなら、だらしない性格では理解しにくいと思われています。道徳的に立派な性格ができている人にだけ、真理を理解して悟ることが可能です。ですから、今は口先だけでも結構ですが、五戒は一応「立派な人間になるために努力する」という約束です。

 なぜ、次に慈悲の冥想をするのですか?それは、「これだけでも日本人の心に根付いてほしい」という切実な希望があります。慈しみの気持ちは、人間の生きるモットーにするべきです。他に対して恨み、憎しみではなく、友情の気持ちを向けるべきです。恨む者、恨まれる者、両者も不幸で苦しいのです。他に対する友情こそ、生きることの幸せを築き上げます。

 ですから、皆さまに挨拶する前に、何の前触れもなく 『では、ナモー タッサバガヴァトー アラハトー…』 と、唱えることで始めます。皆さまが戸惑ったりするかもしれませんが、この儀式まがいのことは、仏教では何よりも先に行う挨拶です。これは、お釈迦さまに対する挨拶です。皆さま方に挨拶するのはそれからです。それを覚えていただければ幸いです。」

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[Dhammacast]感覚は苦である/三帰依の完成者(mp3 約28分)

2006年4月6日上座仏教教室(ゴータミー精舎)での質疑応答より

講師:スマナサーラ長老

1)仏教では一般的に感覚(受)は「苦・楽・不苦不楽」に分類されるが、スマナサーラ長老は瞑想指導の中で「感覚は苦である」と指摘する。その真意とは…? 

2)三帰依を完成した人は預流者(最初の聖者)と呼ばれる。しかし、ただ三帰依の言葉を呪文のように唱えても何の意味もない。預流果に達した人が本物の仏教徒(究極的な哲学者)と呼ばれる理由を解説する。

 「三帰依の由来 ~仏教は自己責任で帰依します~」(text)

 2001年5月、関西地区 初期仏教宿泊実践会(丹後 宝泉寺会場)での説法

講師:スマナサーラ長老

 

お幸せでありますように

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