Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

レポート公開|9/30(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「心配しないこと」第2章

▼9/30(土)関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

・まず皆さんで慈悲の瞑想をしました。

 

今回のテキスト「心配しないこと」(大和書房)※電子書籍あり

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・テキスト「心配しないこと」第2章「不安のしくみ」自己評価のカラクリを知る
・以下、要約と感想を書きます。

・煩悩=本能である「慢/測る」は大きくわけて3種類
・自分と他人の存在(価値)を測って、重い・等しい・軽いという判断をする
・高慢(ati māna)、同等慢(sadisa māna)、卑下慢(hīna māna)
・自分の存在が他人より上だ思うと、高慢になる
・自分と等しいと思うと、同等慢になる
・自分が下だと思うと、卑下慢になる

・言葉を換えて表現すると
・優れている、等しい、劣っている

・更に3種類を枝分かれすると
・「優れた人」と自分を比較して
 ➀優れた人よりも自分は優れている
 ②優れた人と自分は等しい
 ③優れた人よりも自分は劣っている

・「等しい人」と自分を比較して
 ④等しい人よりも自分は優れている
 ⑤等しい人と自分は等しい
 ⑥等しい人よりも自分は劣っている

・「劣っている(下品・卑しい)人」と自分を比較して
 ⑦劣った人よりも自分は優れている
 ⑧劣った人と自分は等しい
 ⑨劣った人よりも自分は劣っている

・それぞれの慢を発見するのは難しい
・慢を理解するために「〇〇と思っていたのに」という言葉を使う
・例 私はあの優れている人よりも勉強ができると思っていたのに自分の方が劣っている。
・これで慢を発見しやすくなる

・同等慢は見えにくい
・同等慢は平等と勘違いしてしまう可能性がある
・同等慢は「私もあなたと同じだ(立場・能力・権利など)」と威張ること
・兄妹や同僚などの関係で、同等慢は見かけやすい
・「あなたと私は同じなのになぜ?」と、心に怒り、憎しみ、嫉妬、怨みなどの葛藤が生まれる

・なぜ同等慢は悪いのか
・自我というものは、錯覚であり幻覚でしかない
・人格もまた状況により瞬間に変わっていくもの
・本当は瞬間的に変わってしまう人格を誰とも比較できない
・真理としては、そもそも比較が成り立たない
・しかし、実際には「あの人と同じ」「アイツより俺の方ができる」「私は誰よりも劣っている」など
・「変わらない自分がいる」という誤解を持って比較している
・測ることで、変わらない確かな「私」という錯覚を強化し、さらに葛藤により感情が生まれ苦しむ

・心を清らかにする仏教では、慢という煩悩は克服するべきもの
・俗世間的には、慢(プライド)も使いようによっては、成長のために活用できる
・理性によって「良い人間になりたい」と思えば、優れた人格者をモデルにして自分を比較し行動を変えられる
・世間ではよく「憧れ」という言葉で出てくる現象と思います。真似をすること
・「誇り高く生きる」とかいうことも、自分のプライドを使って生きることだと思います。

・一方、自我を肯定する慢は悪である
・自分と他人を測って悪感情、負の感情が生まれてくる場合、それは悪性の慢です
・アイツを見ていると常に嫉妬が生まれるとか、いつも見下してしまうなどは、自己破壊に繋がる。
・どんな慢が発生するのかは状況次第
・測る相手によっても、高慢-同等慢-卑下慢がコロコロ変わっていくもの

・繰り返し自分と相手を測っていると、いつしかそれが癖になる
・癖はいずれ性格として根付いてしまう、身についてしまう
・自分の慢に気づき、悪い癖や性格にならないようにする必要がある(予防策)
・勘違いしてはいけないのは、慢は常にあることです
・慢が癖や性格として固定されていない場合、状況によって慢は変化し現れる
・特定の慢が強固になっていても、それにも気づきましょう

・改めて、慢とは「自分の存在価値を測ること」です
・自我意識=自分がいるという実感(価値)
・言葉にしなくても「自分がいる」という実感は消えない
・自分の価値を確かめたくなるのが、生きること(本能、衝動)
・生きること、行動にも確実に価値がついている、介在している
・価値をつけて生きることは本能であり、不可欠なこと
・どうなるかわからない将来に不安や心配している、生きるために測っている
・しかし、測ることで不安や心配は増し、限りなく回転していく。
・そして、測ることが悪性になり、性格となってしまう。
・眠るとか、食べるとか、生きるためにしている行為であっても
・適切に行為しなければ、自己破壊に繋がる
・慢も同じこと、暴走しないように予防と管理が必要

・慢の程度をチェックするために「優しさ」を問う
・他者に優しくできているか?というチェック
・他者の幸せを願って親切に接しているならOK
・生きていられるのは他の生命のおかげ
・慢が強くなっていると、周囲に優しくできない

差別意識が強いのも慢が強化されているから起こること
・区別能力(知識)は、これも生きるために必要なこと
・測ることと区別とは別物
・区別に主観が混じると、差別になってしまう
・パンと石、どちらが食べられるものかを判断するとき区別が必要
・測ることは、自我の錯覚(存在価値)の上に成り立っている
・測るのは自分と他者について
・スーパーでバナナを買う、黄色で新鮮なバナナと黒ずんでいて傷んだバナナがある
・区別能力で品定めをする、バナナ(物)同士を比較し自分にとって利益・価値のある方を選ぶ
・慢は、この人は私より優れている/この人は私より劣っている、相手と自分(生命)という比較によって自分の存在価値を確かめること

・いきなり主観はなくせない、消えない(手順がある)
・慈悲喜捨を実践し自我を抑える
・自動的に慢の程度も抑えられ、不安や心配が減る結果になる
以上

 慢の程度をチェックするのに周囲に優しくできているか問う、という項目がありましたが、まさに今朝失敗した具体例がありました。電車の中での出来事だったのですが、自我を張ってしまいました。後で自我を張ってしまったことに後悔したので、判断が間違っていたなと反省しました。素直に親切にしていれば良かっただけなのに。「今日は疲れているから気を遣えない」という自分自身に言い訳をしてしまいました。情けない。僕が座った直後に若者三人が乗ってきて、僕の横は二席しか空いてなかったので自分の場所を譲って、他に空いていた別な場所に坐れば良かったのですが。若者も譲ってくれるかなと期待している顔も見えたのですが、「めんどくさい」と思ってそのまま座っていました。一人は近くの別な場所に座りました。三駅先で僕は降りたのですが、すぐに空いた席に三人並んで座ってました。本当にささいなことですが、自分の自我を出したことで嫌な気分になりました。

生きとし生けるものが幸せでありますように