Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

レポート公開|10/21(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「心配しないこと」第3章

▼10/21(土)関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

・まず皆さんで慈悲の瞑想をしました。

 

今回のテキスト「心配しないこと」(大和書房)※電子書籍あり

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479012281/jtheravada-22/


・テキスト「心配しないこと」第3章「幸・不幸を司る『心』のしくみ~自己評価と煩悩家族」

・以下、要約と感想を書きます。

・慢というテーマですが、慢という自己評価の煩悩が心に起こる心理学的な仕組みの考察
・まず人間には自我意識(自我・私)がある
・この自我意識は、眼耳鼻下体から入ってくる刺激という情報・外界を認識した結果で起こる錯覚
・認識の過程で起こる副産物
・〈私〉という実感
・私は見た/私は聞いた/匂いがする(私が匂った)/私は味わった(美味しいorまずい)/私は触れた
・情報が入る/感覚が起こる度に、「私」という自我意識が強化されていく 
・そして「私」という実在があると思い込む(これが錯覚)

・この実在のない自我意識が中心になって生きている
・この自我意識が反応して、思考や煩悩である感情が次から次に現れてくる
・この自我意識が高慢の種になる
・自我意識である〈私〉の価値は、常に最も最高の価値付けがされている
・「私は正しい=私は偉い=私が一番可愛い=私が最高=私は尊い=私が正義=私は賢い=私は美しく清い」など
・これは本能
・慢の種類は「高慢、同等慢、卑下慢」であるが、もともとの自我意識にある高慢が変化し同等慢や卑下慢となる
・一人ひとりが皆「私こそが正しい」と思っていることがデフォルト
・だから人間同士で争いが起こるのは当然
・客観的な事実にもとづかない限り、誰の意見・考え・判断も正しい/間違いと言えない
・人生が上手くいくほど、人生で成功すればするほど、「私は正しい」という自我意識が強くなり膨張していく

・自我意識という価値、またそれを測る慢、それらの働きを暴走させたり、悪性化したりするのは「無明」が原因
・無明とは根本煩悩
・無明に≒無智でもある
・無明の意味は、因果法則がわからない、真理を知らないということ
・無明が慢の土台になっている
・慢とは無明の子どもであり、無明は慢の母親
・無明が悪の総合監督
・無明によって、自我意識(錯覚)が現れ、欲が生まれ、慢が起こる
・慢の働かせるほど、無明が成長してしまう
・例:子どもが世間で活躍したり賞賛されると、親は鼻高々になる。そんなイメージ
・また無明が妄想の暴走につながる
・「わからない/知らない」からどんどん考える。止まらない
・例:「家の隣から女性の泣き声が聞こえてくる」→「もしかすると誰かが亡くなったのかもしれない」「子どもが病気になったのかもしれない」「ペットの犬がいなくなってしまったのかもしれない」「テレビドラマに感動しているのかもしれない」「夫の浮気がバレてケンカして泣いているのかもしれない」などいくらでも理由を考えられる
・妄想が流れていく
・例:「女性の泣き声がする」→「ペットの犬が死んだかもしれない」→「隣の家の犬は可愛かった」→「私も犬を飼いたいな」→「犬が飼える家に引っ越ししたい」→「でもそれは経済的に難しい」→「給料のいい仕事に就きたい」といった具合
・妄想は無限に走り回る
・そして、心配や不安、欲や怒りなどの感情も生み出す
・妄想は精神力や時間を浪費するばかりで、役に立たない。
・妄想にゴールはない

・無明により、自我意識があり、慢を働かせている。そして妄想までする。
・本能としてある慢、それから妄想が働くことで、感情が湧き出す。
・感情が回転し出すと、それによってまた無明が強くなっていく
・慢が機能し、高慢になる。高慢で怒りがどんどん出てくる。高慢も怒りも、無明を強くする。
・自分のことが可愛いからこそ慢が生じる

・悪行為をするときは、必ず無明が強くなっている
・悪行為をするとき、理性を失っている
・理性を機能しないと感情の奴隷となる
・食事をする、選ぶときにでも、理性的に判断せず、「大好きなものを選ぶ」「流行っているいるものを選ぶ」
・感情は大きくわけて二つ、好き/嫌い

・人間の本音は、「美味しいものだけを食べたい」「聞きたい音だけ聞きたい」「見たいものだけ見たい」というもの
・「私の期待通りになれ」「私が思う通りに変化しなさい」という自我意識で生きている
・世界(現象)は自然の摂理(因果法則)で成り立っている
・すべてを私が管理できるはずがない、それが無明のせいで理解できない

・無明により感情の奴隷なので、もっともっとと欲している
・無明のせいで、楽しくもない/苦しくもない(普通の)状態を退屈と感じる
※退屈だから刺激を得るために妄想が止まらない
・感情に囚われると不安や心配が大きくなる
・本当の幸せを求めるなら、感情にとらわれず、普通を楽しめるようになる必要がある
・普通の状態をよく観察すると、普通の中に楽しさを発見できる

・自我意識やその価値、そして慢という測りは不正確であることを理解しておく
・情報入力している感覚、感じ方は人によってそれぞれ違う
・それによって生じる感情も様々
・大前提として、人によって感覚や感情は違う/異なると理解するべき
・自分の尺度が絶対的なものではないと肝に銘じる

・私たちは感情の波が好き、感動が好き、興奮を手放せない
・妄想することで感情が生まれる。だから妄想することが大好き
・退屈は大嫌い
・喜怒哀楽がなくなると恐怖を覚える
・感情を味わうことが人生だと思っている
・感情は主観
・感情に任せて行動すると、ろくな結果にならない
・私が好きだから、それをする。それら良いとわけではない。
・感情をゼロにはできないが、感情に流されないようにすることはできる
・それは理性が必要
・犯罪行為をしてしまうのも感情が抑制できないから
・感情は本能で生まれつき備わっている
・理性は生まれつき備わっていない、学び育てるしかない

・理性を育てるためには、「自我が錯覚でる」と気づくこと
・客観的な視点を持つこと
・感情は自我かあるから生じていると観察して理解すること
・他人と比べていると自分のことはわからない
・他人と比べることは自己観察にならない
・例:テストで80点を取る。やったと思う。隣の席の人の点数を見ると90点とわかる。すると「ああ、負けた、悔しい」と思う。それで先生が今回のテストの平均点が85点だったと聞くと、「自分は平均点以下だったのか」とガッカリしてしまう。
・感情はどんどん変化し、当てにならない

・理性を育てるために、データに基づいて判断するように心がける
・人が発信しているデータも視点や考え方によって変わってしまうことを理解しておく
・どんなことでも鵜呑みにするのは良くないと注意する
・複数のデータを取って比較してみることも訓練になる
・感情的で極端なデータには気をつける
・専門分野で研究している人は謙虚、データも信頼性がある
・テータを尊重するがデータに執着しない
・データに基づいて判断する癖をつける
以上

 データに騙されないためにも、自分の感情に流されないことが大事かと思いました。そこには「自我が錯覚である」気づくということにも関わってきます。感情に流されれば、データを見誤ることにもなります。妄想は本当に大好きでやっていることですね。止まりません。しかし、そのせいで悩み苦しみも現れます。でも退屈が苦しいから、やっぱり妄想しまくる。悪循環で、他にどうしたら良いかわからないから、結局は妄想することに戻ってしまう。「今に気づく」ということにはならないですね。

 そもそも自我の錯覚があるので、判断することも難しいですね。「正しい判断」というものが。やはり「自我の錯覚」という壁を破る必要を感じます。皆さんは、どう思われるでしょうか?

 

●参考資料
あなたとの対話|無明をぶっ壊せ

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/pp200709/

あなたとの対話|無明とは

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/gimon71b/

巻頭法話|無明は最大の錆

https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou140/

動画|判断力 〈正しい判断〉への道のり|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(24 sept 2023 武蔵野公会堂)

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生きとし生けるものが幸せでありますように