Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

兵庫 1月28日(日)『関西月例冥想会』マーヤーデーヴィー精舎

 

 兵庫県三田市で行われますスマナサーラ長老による法話と冥想の会。午前中は質疑応答形式による法話、午後からヴィパッサナー冥想が初めての方に冥想指導がございます。申し込み不要で、参加費は喜捨(お布施)、皆様ご参加いただけます。

●指導:スマナサーラ長老

▼スケジュール
 09:30 お経・質疑応答&法話
 11:30 お釈迦様へ食事のお供え・お昼休憩
 13:20 初めての方へ冥想指導・各自冥想
 18:30 終了
※予約・申込みなく参加していただけます。
※参加費:喜捨(お布施)

 当日、一般には駐車場はご利用いただけません。お車でお越しの方は、各自で周辺の駐車場をご利用ください。また近隣へのご迷惑にならないよう、ご注意ください。よろしくお願いいたします。

●地図:http://j-theravada.com/about/vihara/#sect-3
〒669-1525 兵庫県三田市対中町21-2

▼お問い合わせ「マーヤーデーヴィー精舎」まで
 電話:079-506-0003  
 メール:mayadevi@zeus.eonet.ne.jp

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|10/21(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「心配しないこと」第3章

▼10/21(土)関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

・まず皆さんで慈悲の瞑想をしました。

 

今回のテキスト「心配しないこと」(大和書房)※電子書籍あり

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479012281/jtheravada-22/


・テキスト「心配しないこと」第3章「幸・不幸を司る『心』のしくみ~自己評価と煩悩家族」

・以下、要約と感想を書きます。

・慢というテーマですが、慢という自己評価の煩悩が心に起こる心理学的な仕組みの考察
・まず人間には自我意識(自我・私)がある
・この自我意識は、眼耳鼻下体から入ってくる刺激という情報・外界を認識した結果で起こる錯覚
・認識の過程で起こる副産物
・〈私〉という実感
・私は見た/私は聞いた/匂いがする(私が匂った)/私は味わった(美味しいorまずい)/私は触れた
・情報が入る/感覚が起こる度に、「私」という自我意識が強化されていく 
・そして「私」という実在があると思い込む(これが錯覚)

・この実在のない自我意識が中心になって生きている
・この自我意識が反応して、思考や煩悩である感情が次から次に現れてくる
・この自我意識が高慢の種になる
・自我意識である〈私〉の価値は、常に最も最高の価値付けがされている
・「私は正しい=私は偉い=私が一番可愛い=私が最高=私は尊い=私が正義=私は賢い=私は美しく清い」など
・これは本能
・慢の種類は「高慢、同等慢、卑下慢」であるが、もともとの自我意識にある高慢が変化し同等慢や卑下慢となる
・一人ひとりが皆「私こそが正しい」と思っていることがデフォルト
・だから人間同士で争いが起こるのは当然
・客観的な事実にもとづかない限り、誰の意見・考え・判断も正しい/間違いと言えない
・人生が上手くいくほど、人生で成功すればするほど、「私は正しい」という自我意識が強くなり膨張していく

・自我意識という価値、またそれを測る慢、それらの働きを暴走させたり、悪性化したりするのは「無明」が原因
・無明とは根本煩悩
・無明に≒無智でもある
・無明の意味は、因果法則がわからない、真理を知らないということ
・無明が慢の土台になっている
・慢とは無明の子どもであり、無明は慢の母親
・無明が悪の総合監督
・無明によって、自我意識(錯覚)が現れ、欲が生まれ、慢が起こる
・慢の働かせるほど、無明が成長してしまう
・例:子どもが世間で活躍したり賞賛されると、親は鼻高々になる。そんなイメージ
・また無明が妄想の暴走につながる
・「わからない/知らない」からどんどん考える。止まらない
・例:「家の隣から女性の泣き声が聞こえてくる」→「もしかすると誰かが亡くなったのかもしれない」「子どもが病気になったのかもしれない」「ペットの犬がいなくなってしまったのかもしれない」「テレビドラマに感動しているのかもしれない」「夫の浮気がバレてケンカして泣いているのかもしれない」などいくらでも理由を考えられる
・妄想が流れていく
・例:「女性の泣き声がする」→「ペットの犬が死んだかもしれない」→「隣の家の犬は可愛かった」→「私も犬を飼いたいな」→「犬が飼える家に引っ越ししたい」→「でもそれは経済的に難しい」→「給料のいい仕事に就きたい」といった具合
・妄想は無限に走り回る
・そして、心配や不安、欲や怒りなどの感情も生み出す
・妄想は精神力や時間を浪費するばかりで、役に立たない。
・妄想にゴールはない

・無明により、自我意識があり、慢を働かせている。そして妄想までする。
・本能としてある慢、それから妄想が働くことで、感情が湧き出す。
・感情が回転し出すと、それによってまた無明が強くなっていく
・慢が機能し、高慢になる。高慢で怒りがどんどん出てくる。高慢も怒りも、無明を強くする。
・自分のことが可愛いからこそ慢が生じる

・悪行為をするときは、必ず無明が強くなっている
・悪行為をするとき、理性を失っている
・理性を機能しないと感情の奴隷となる
・食事をする、選ぶときにでも、理性的に判断せず、「大好きなものを選ぶ」「流行っているいるものを選ぶ」
・感情は大きくわけて二つ、好き/嫌い

・人間の本音は、「美味しいものだけを食べたい」「聞きたい音だけ聞きたい」「見たいものだけ見たい」というもの
・「私の期待通りになれ」「私が思う通りに変化しなさい」という自我意識で生きている
・世界(現象)は自然の摂理(因果法則)で成り立っている
・すべてを私が管理できるはずがない、それが無明のせいで理解できない

・無明により感情の奴隷なので、もっともっとと欲している
・無明のせいで、楽しくもない/苦しくもない(普通の)状態を退屈と感じる
※退屈だから刺激を得るために妄想が止まらない
・感情に囚われると不安や心配が大きくなる
・本当の幸せを求めるなら、感情にとらわれず、普通を楽しめるようになる必要がある
・普通の状態をよく観察すると、普通の中に楽しさを発見できる

・自我意識やその価値、そして慢という測りは不正確であることを理解しておく
・情報入力している感覚、感じ方は人によってそれぞれ違う
・それによって生じる感情も様々
・大前提として、人によって感覚や感情は違う/異なると理解するべき
・自分の尺度が絶対的なものではないと肝に銘じる

・私たちは感情の波が好き、感動が好き、興奮を手放せない
・妄想することで感情が生まれる。だから妄想することが大好き
・退屈は大嫌い
・喜怒哀楽がなくなると恐怖を覚える
・感情を味わうことが人生だと思っている
・感情は主観
・感情に任せて行動すると、ろくな結果にならない
・私が好きだから、それをする。それら良いとわけではない。
・感情をゼロにはできないが、感情に流されないようにすることはできる
・それは理性が必要
・犯罪行為をしてしまうのも感情が抑制できないから
・感情は本能で生まれつき備わっている
・理性は生まれつき備わっていない、学び育てるしかない

・理性を育てるためには、「自我が錯覚でる」と気づくこと
・客観的な視点を持つこと
・感情は自我かあるから生じていると観察して理解すること
・他人と比べていると自分のことはわからない
・他人と比べることは自己観察にならない
・例:テストで80点を取る。やったと思う。隣の席の人の点数を見ると90点とわかる。すると「ああ、負けた、悔しい」と思う。それで先生が今回のテストの平均点が85点だったと聞くと、「自分は平均点以下だったのか」とガッカリしてしまう。
・感情はどんどん変化し、当てにならない

・理性を育てるために、データに基づいて判断するように心がける
・人が発信しているデータも視点や考え方によって変わってしまうことを理解しておく
・どんなことでも鵜呑みにするのは良くないと注意する
・複数のデータを取って比較してみることも訓練になる
・感情的で極端なデータには気をつける
・専門分野で研究している人は謙虚、データも信頼性がある
・テータを尊重するがデータに執着しない
・データに基づいて判断する癖をつける
以上

 データに騙されないためにも、自分の感情に流されないことが大事かと思いました。そこには「自我が錯覚である」気づくということにも関わってきます。感情に流されれば、データを見誤ることにもなります。妄想は本当に大好きでやっていることですね。止まりません。しかし、そのせいで悩み苦しみも現れます。でも退屈が苦しいから、やっぱり妄想しまくる。悪循環で、他にどうしたら良いかわからないから、結局は妄想することに戻ってしまう。「今に気づく」ということにはならないですね。

 そもそも自我の錯覚があるので、判断することも難しいですね。「正しい判断」というものが。やはり「自我の錯覚」という壁を破る必要を感じます。皆さんは、どう思われるでしょうか?

 

●参考資料
あなたとの対話|無明をぶっ壊せ

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/pp200709/

あなたとの対話|無明とは

https://j-theravada.com/dhamma/q&a/gimon71b/

巻頭法話|無明は最大の錆

https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou140/

動画|判断力 〈正しい判断〉への道のり|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(24 sept 2023 武蔵野公会堂)

youtu.be

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|9/30(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「心配しないこと」第2章

▼9/30(土)関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

・まず皆さんで慈悲の瞑想をしました。

 

今回のテキスト「心配しないこと」(大和書房)※電子書籍あり

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479012281/jtheravada-22/


・テキスト「心配しないこと」第2章「不安のしくみ」自己評価のカラクリを知る
・以下、要約と感想を書きます。

・煩悩=本能である「慢/測る」は大きくわけて3種類
・自分と他人の存在(価値)を測って、重い・等しい・軽いという判断をする
・高慢(ati māna)、同等慢(sadisa māna)、卑下慢(hīna māna)
・自分の存在が他人より上だ思うと、高慢になる
・自分と等しいと思うと、同等慢になる
・自分が下だと思うと、卑下慢になる

・言葉を換えて表現すると
・優れている、等しい、劣っている

・更に3種類を枝分かれすると
・「優れた人」と自分を比較して
 ➀優れた人よりも自分は優れている
 ②優れた人と自分は等しい
 ③優れた人よりも自分は劣っている

・「等しい人」と自分を比較して
 ④等しい人よりも自分は優れている
 ⑤等しい人と自分は等しい
 ⑥等しい人よりも自分は劣っている

・「劣っている(下品・卑しい)人」と自分を比較して
 ⑦劣った人よりも自分は優れている
 ⑧劣った人と自分は等しい
 ⑨劣った人よりも自分は劣っている

・それぞれの慢を発見するのは難しい
・慢を理解するために「〇〇と思っていたのに」という言葉を使う
・例 私はあの優れている人よりも勉強ができると思っていたのに自分の方が劣っている。
・これで慢を発見しやすくなる

・同等慢は見えにくい
・同等慢は平等と勘違いしてしまう可能性がある
・同等慢は「私もあなたと同じだ(立場・能力・権利など)」と威張ること
・兄妹や同僚などの関係で、同等慢は見かけやすい
・「あなたと私は同じなのになぜ?」と、心に怒り、憎しみ、嫉妬、怨みなどの葛藤が生まれる

・なぜ同等慢は悪いのか
・自我というものは、錯覚であり幻覚でしかない
・人格もまた状況により瞬間に変わっていくもの
・本当は瞬間的に変わってしまう人格を誰とも比較できない
・真理としては、そもそも比較が成り立たない
・しかし、実際には「あの人と同じ」「アイツより俺の方ができる」「私は誰よりも劣っている」など
・「変わらない自分がいる」という誤解を持って比較している
・測ることで、変わらない確かな「私」という錯覚を強化し、さらに葛藤により感情が生まれ苦しむ

・心を清らかにする仏教では、慢という煩悩は克服するべきもの
・俗世間的には、慢(プライド)も使いようによっては、成長のために活用できる
・理性によって「良い人間になりたい」と思えば、優れた人格者をモデルにして自分を比較し行動を変えられる
・世間ではよく「憧れ」という言葉で出てくる現象と思います。真似をすること
・「誇り高く生きる」とかいうことも、自分のプライドを使って生きることだと思います。

・一方、自我を肯定する慢は悪である
・自分と他人を測って悪感情、負の感情が生まれてくる場合、それは悪性の慢です
・アイツを見ていると常に嫉妬が生まれるとか、いつも見下してしまうなどは、自己破壊に繋がる。
・どんな慢が発生するのかは状況次第
・測る相手によっても、高慢-同等慢-卑下慢がコロコロ変わっていくもの

・繰り返し自分と相手を測っていると、いつしかそれが癖になる
・癖はいずれ性格として根付いてしまう、身についてしまう
・自分の慢に気づき、悪い癖や性格にならないようにする必要がある(予防策)
・勘違いしてはいけないのは、慢は常にあることです
・慢が癖や性格として固定されていない場合、状況によって慢は変化し現れる
・特定の慢が強固になっていても、それにも気づきましょう

・改めて、慢とは「自分の存在価値を測ること」です
・自我意識=自分がいるという実感(価値)
・言葉にしなくても「自分がいる」という実感は消えない
・自分の価値を確かめたくなるのが、生きること(本能、衝動)
・生きること、行動にも確実に価値がついている、介在している
・価値をつけて生きることは本能であり、不可欠なこと
・どうなるかわからない将来に不安や心配している、生きるために測っている
・しかし、測ることで不安や心配は増し、限りなく回転していく。
・そして、測ることが悪性になり、性格となってしまう。
・眠るとか、食べるとか、生きるためにしている行為であっても
・適切に行為しなければ、自己破壊に繋がる
・慢も同じこと、暴走しないように予防と管理が必要

・慢の程度をチェックするために「優しさ」を問う
・他者に優しくできているか?というチェック
・他者の幸せを願って親切に接しているならOK
・生きていられるのは他の生命のおかげ
・慢が強くなっていると、周囲に優しくできない

差別意識が強いのも慢が強化されているから起こること
・区別能力(知識)は、これも生きるために必要なこと
・測ることと区別とは別物
・区別に主観が混じると、差別になってしまう
・パンと石、どちらが食べられるものかを判断するとき区別が必要
・測ることは、自我の錯覚(存在価値)の上に成り立っている
・測るのは自分と他者について
・スーパーでバナナを買う、黄色で新鮮なバナナと黒ずんでいて傷んだバナナがある
・区別能力で品定めをする、バナナ(物)同士を比較し自分にとって利益・価値のある方を選ぶ
・慢は、この人は私より優れている/この人は私より劣っている、相手と自分(生命)という比較によって自分の存在価値を確かめること

・いきなり主観はなくせない、消えない(手順がある)
・慈悲喜捨を実践し自我を抑える
・自動的に慢の程度も抑えられ、不安や心配が減る結果になる
以上

 慢の程度をチェックするのに周囲に優しくできているか問う、という項目がありましたが、まさに今朝失敗した具体例がありました。電車の中での出来事だったのですが、自我を張ってしまいました。後で自我を張ってしまったことに後悔したので、判断が間違っていたなと反省しました。素直に親切にしていれば良かっただけなのに。「今日は疲れているから気を遣えない」という自分自身に言い訳をしてしまいました。情けない。僕が座った直後に若者三人が乗ってきて、僕の横は二席しか空いてなかったので自分の場所を譲って、他に空いていた別な場所に坐れば良かったのですが。若者も譲ってくれるかなと期待している顔も見えたのですが、「めんどくさい」と思ってそのまま座っていました。一人は近くの別な場所に座りました。三駅先で僕は降りたのですが、すぐに空いた席に三人並んで座ってました。本当にささいなことですが、自分の自我を出したことで嫌な気分になりました。

生きとし生けるものが幸せでありますように

紹介|lineオープンチャット「関西ダンマサークル」※自由参加

▼lineオープンチャット「関西ダンマサークル」※自由参加

 

よければご参加ください!


https://line.me/ti/g2/fEU1ZHd7G4QbL3OTazpn68YLOtxgzgt4baFKZQ?utm_source=invitation&utm_medium=link_copy&utm_campaign=default

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|8/20(日) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「心配しないこと」第1章

▼8/20(日)関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート
・まず皆さんで慈悲の瞑想をしました。
・新刊「心配しないこと」の第1章「なぜ不安になるのか?」自己評価という落とし穴 を読みました。

 

今回のテキスト「心配しないこと」(大和書房)※電子書籍あり

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479012281/jtheravada-22/

 

・私たちの人生は、不安だらけ
・ずっと健康でいられるか、子ども将来が心配、会社が倒産して仕事を失ったらどうしようなどなど、明るい未来を創造できず不安を抱えている
・現状に不安なく「今がとても幸せだ、この幸せが続いてほしい」と感じている人も、自分を取り巻く環境が変化すれば、心配や落ち込みがあるでしょう。
・社会情勢や物価高騰、超高齢者社会や感染症の流行、気候変動や自然災害などなど、外の世界も目まぐるしく変化していて危機を感じます。
・つまり不安や心配とは、『状況が変化することへの恐れ』であるとまとめられる。
・不安の公式『現状が変化することへの恐れ』

・自分の外の世界もどんどん変化していきますが、それ以上のスピードで自分自身(肉体と精神)も絶えず変化してきます。
・自分の変化とは、生老病死です。どんどん寿命は減っていき、若さや健康は失われていきます。
・そもそも現象は無常であって変化することで成り立っていると、散々教えられて学んでいるのに
・変化することに対して、抵抗する・認められない・納得できていない・嫌な気持ちが生れる・悲しくなる・切なくなる・不安になる
・お釈迦様は「変化しないという錯覚に酔うことをやめなさい」と説かれている。

・不安を感じても、不安になっても、それでは何も解決しない、できない。
・不安になることが、不安を消すことにはならない。
・ネガティブな感情は貯まっていくだけで、一向に幸せにはなれない。
・不安や心配を育てずに、手放すべきもの

・不安や心配は、未来や将来を考えることで生まれてくる。
・未来を知ることは不可能、これが答えです。
・未来を過去の情報から推測はできるが、必ずその通りになるわけではない。
・住宅ローンが返済できるか、年金で老後を暮らせるか、健康診断の結果はどうだろうか、子どもがまともに育ち就職できるか、明日の仕事が上手くいくだろうか、テストに合格できるだろうか
・今日の天気予報はどうか、今日の運勢はどうか、あとどれくらい生きれるだろうか、どんな人と結婚するのだろうか、来年はどんな年になるだろうか、
・先のことが知りたくて、未来のことを考えてしまう。
・いくら考えたとしても、未来は不透明で不確定
・まず「未来はどうるなるのかわらかない」これを受け入れられれば、それだけで不安や心配は格段に減らすことができる
・物事は予定通り、スケジュール通りには進まない、これは当たり前のことなのです
・思わぬこと、想定外のことが起こる

・勉強会で僕は過去に対しても不安があると言いましたが、不安は未来に対して生まれる感情です。
・テキストには過去のことは書かれていませんでした。
・過去の出来事は変化させることは不可能ですから、不安ではなく「後悔」という感情になりますね。
・過去の行為に対して、「あんなことしなければよかった」「ああしていればよかった」という悔しさ(怒り)です。

・また、欲が不安を生み出す
・自分ひとりでは何もできない、それで不安になる。
・「あれが欲しい、これが欲しい」という欲が常にあり、欲しいものが手に入るかどうかわからないので、悩みや不安や心配が生じる。
・子どもも大人も満たされない気持ちは変わらない
・流行っているゲームがほしい、皆と同じ習い事がしたい、人気者になりたい、もっとお金を稼ぎたい、家や車を買いたい、成功者になりたい、出世したい、部下から慕われたい、いつまでも若く見られたい
・どこまでいっても満足できない。
・不安や心配は、決して外からやってくるわけではなく、その種は自分で生み出している

・一生懸命に努力して、お金や地位や名誉、世間からの賞賛など欲しいものを手に入れたとする。
・すると、今度は一度手に入れたものを手放すことが不安になってしまう
・持っていないことが不安だったのに、次は持っていることが不安になる
・これも結局は無常ということ
・常に変化し続けているから、安定するということがない。ずっと回転し続ける
・ということで、「現状維持」ということはない
・同じ状態で留まっていられることは不可能
・体力も能力も、どんどん衰えて壊れていくのが法則
・生きるとは変化すること
・変化を恐れず、変化を受け入れることが大切

・仏教心理学で生命の心に「慢(māna)」があると教える
・意味(働き)は「測る」、自分を測る
・慢を働かせ、自分の存在を測る、他者の存在を比較する
・「私とはいったい何者か」と知るために、自分と他人を比較し、自己評価する
・この心の働きは常にある。常に出会う人と自分を測っている
・私は自分と他人を比べたりしないと思う人もいるが、それは単に慢に気づいていないだけ。
・生命はずっと慢という煩悩を回転させている
・自分と他人を測ったあとに、自分より上、自分と同等、自分より下という三つに分類する
・例えば美しさを測れば、自分より美しい、自分と同じぐらい、自分に比べて大したことない
・この「測る」ということで、自分の存在(自我意識)が揺らぐ。
・感情として、自信がないとか、不安や心配、傲慢や優越感、嫉妬や劣等感などのあらゆる感情が生れ悩み苦しむ
・環境が変化するということは測る対象が変わるので、存在が不安定になりやすい
・その点、家族などは、ある程度一定しているので、自分の存在が安定している。居心地が良いと感じ、落ち着く。

・存在が不安定になればなるほど慢は回転し、安定を求めて測り続ける。
・他人と比較することで「私はこういう人間だ」と自我を確立したい
・例えば、自分の左側にボロボロの服を着たダサイ人がいる。その人と自分を測ると、自分はイケていると安心できる。自信が持てる。
・次に自分の右側におしゃれな服を着ているカッコイイ人がいる。その人と自分を測ると、自分はカッコ悪くダサイと感じる。惨めな気分になり落ち込む。自信がなくなる。
・また左側を見ると安心し、右側を見ると自信がなくなり不安になる。そんなもの
・認識では「限りない自我の不安」という状態がある

・存在とは、自分にどの程度の価値があるかということ、それを知りたい。
・つまり自我の価値=慢
・価値によって行動が変化する
・自我=存在=価値
・価値を測り、評価を定め、それに合わせて行為する、これが生命の基本原則
・道端に1円玉が落ちていても気にならないが、1万円札が落ちていたら気にる
・これは価値の問題
・動物園に行ったらパンダは人気があってみな見たがるが、クマにはそれほど関心を持たない。

・価値=執着となる
・どんなものに価値をおくかは人によって異なる
・価値が大きいほど執着が強くなる
・価値は2種類、プラス価値とマイナス価値
・例えば、猫を見て「かわいい」と思うのはプラス価値、猫に触りたくなる
・ヘビを見て「怖い」と思うのはマイナス価値、ヘビから逃げるかヘビを追い出す
・どちらの価値にも執着している
・五感に触れる刺激すべてに対して、価値を入れ、適切に執着し、それに合わせ行動する

・自分というものに対し究極の価値を入れている(自我)
・私が一番価値あるもの(私が世界一、世界は私を中心に回っている)
・皆がそう思っている
・だから存在を測る度に、自我が揺らぎ不安定になる
・自我と自我がぶつかり、奪い合い、争い、戦い、傷つき、危機が生じている。
・よって、さらに必死になって測ろうとする
・これが世の中の法則
・事実は世界に私がいるだけ

 

以上、ここまでです。

 すごい話になってきました。これが現実に起こっている心の働きです。まだまた気づいていません。不完全な認識から自我の錯覚が生れ、そして測ることで起きる問題、それから生まれる感情にはなんとなく気づいています。さまざまな感情と悩み苦しみを感じていますが、それが存在を測っていること、自我が揺らいでいること、価値を入れて、その価値に執着しているとこには、まだ気づけていないので困っています。不安のままです。不安を止める、離れる、手放すことができません。現状が変わると、すぐ不安になります。失敗し不安になります。成功し不安になります。いったい何をしているのでしょうね、私たちは。生きることで、幸せになるために努力しているのに、どんどん執着を増やし問題がややこしくなり、不安がどんどん増えて、どうしていいかわからず、未来を知りたくなって、さらに測るようになっていっているという悪循環のように思えます。過去を終わり、未来はわからないのに、それすらも認められず思い悩む。愚かです。

 しかし、安心してください。解決策を仏教は教えています。不安にならないようにするための方法は、第2章以降で説明されているので、次回をお楽しみに!
また感想や意見などありましたら、どうぞ教えてください。よろしくお願いいたします。長々と失礼しました。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|8/5(土) 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

 

▼8/5(土)関西ダンマサークル「zoom茶話会」レポート

・今回のテーマ「理性ってなんですか?」について話し合いました。
・「ある農夫の物語」というエピソードを読みました。

www.ancient-buddhist-texts.net・理性について、皆さんの理解をお聞きしました。
・詳しい答えは、下記の動画が大変役に立つと思います。
・理性はパーリ語で「viññū」

※答え
「Intelligence」理性的に⽣きるためにはどうしたらいいですか︖|スマナサーラ長老の初期仏教月例講演会(08 July 2023 日暮里サニーホール)

www.youtube.com

・理性とは、感情(貪瞋痴)と反対のこと。
・理性とは、知識と判断
・理性とは、感覚から渇愛→執着に発展させないこと
・理性とは、行為において理由があること
・理性とは、慈しみの思考と行為
・理性とは、不貪不瞋不痴
・理性とは、不放逸
などの意見があげられました。

・皆さん、素晴らしい答えだと思います。
・改めて理性が何かを考えてみると、すっと答えが出てこないものです。
・自分がちゃんと捉えられていないからなのでしょう(反省中)。
・行為おいて常に理性的であるわけではありません。よくよく失敗します。
・自分の行為において、やっぱり自覚できていないことが多いなと思います。
・気づきが足りない、慈悲が足りない、理解が足りない、妄想が多い。
・そんなふうに思いました。おわり

 

●参考資料
巻頭法話「理性がないと人生は出口のない迷路」
https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou295/

 

webサンガジャパン「理性の意味を教えてください」
https://online.samgha-shinsha.jp/contents/304c7919030c

 

智慧の扉「聖なる理性と死の観察」
https://j-theravada.com/dhamma/chienotobira/tobira117/

 

智慧の扉「各自で証すべき真理」
https://j-theravada.com/dhamma/chienotobira/tobira155/

 

「自由に達するために」~理性とは貪瞋痴に逆らうこと~
https://www.facebook.com/jtheravada/photos/a.216131248448752/2105725366155988/?type=3

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「あべこべ感覚」第4、5章(最終回)


今回の読書会(「あべこべ感覚」第4章と第5章)の結論は下記の朱字で先に示します。
経典に書いてあるあり得ない五つの期待は「生まれないように」「老いないように」「病まないように」「死なないように」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないように」との期待。別の経典にある四つの保証適用外は「老いないように」「無病」「不死」「因縁から逃げること」。人間はあべこべ感覚で叶わないことばかり期待する。
皆は「私は死なない」という幻想を持っている。この顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。心の汚れが消える。解脱に達する。「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは長文になりますが、よければ読んでみてください。

▼ 2023/7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

今回のテキスト「あべこべ感覚」(サンガ)※電子書籍なし
第4章 あり得ない期待、保証されない願望
第5章 私は死なないという幻想を捨てる

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901679716/jtheravada-22/

 

第4章 あり得ない期待、保証されない願望

経典では、あり得ない期待・願望が五つある。

①「生まれないようにとの期待」
「生」はめでたいことなのに、なぜ『苦』だと言うのか。
生まれるという必然からは逃れられない。
誕生した瞬間から人生は絶えず生まれつつ。体も環境も変化して行く。
「生」といえば誕生のことのみではなく、つねに「生」がある。
変化とは、新しい状況が生まれること。
変化したくないはあり得ない期待。
「死んだら終わりだ」という考えもあべこべ。

②「老いないようにとの期待」
「老いる」ということは、お腹の中に命が現われた瞬間から起こってる。
さいころは「成長」を喜ぶ。しかし、三〇、四〇、五〇歳ぐらいになってくると「年はとりたくない」と思い始める。
老いること自体は本当は苦しみではない。「老いないように」との期待こそが苦しみ。

③「病まないようにとの期待」
誰でもずっと健康でありますようにと期待する。
しかし、病気にならないでいることは叶わない。

④「死なないようにとの期待」
誰も死にたくない。
他の宗教は、永遠の命、天国に行ったら死なない等と教える。
しかし、仏教では、死にたくないという願望は叶わない。天国に行っても死ぬ。

⑤「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないようにとの期待」
憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みは誰にとっても嫌なもの。
それが起こらないようにとの期待は叶わない。

生きているもの、人間にとって「生・老・病・死」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩み」は全部セット。
しかし、人間は生きる本質ではないものを期待する。

「苦」という真理・本質はなくならない。
苦が命をつくって、命を管理して司って、苦のために生きている。

上記の五つの期待は生命の本質だから、期待しても無駄。
他の願望は叶うのだから、ほかのところで頑張ればよい。
しかし、人は叶わないことばかり期待する。

その五つ以外のことは、条件さえそろえれば叶う。
条件とは「希望が現実的であること」と「因果法則をわかっていること」。
目的を目指して達成に見合うだけの努力をすれば、期待や願望はことごとく叶う。

仏教の道は必勝の道。具体的な期待しか作らない。
例えば、今より広い部屋に住みたいから、もうちょっとよい仕事に行かないといけない等と考えて暮らす。
目的を設定し、挑戦する。しかし、執着しないで頑張る。
仏教の人は生きることに執着しないが、失敗せずに一生懸命やるべきことをやる。

別の経典に、沙門も、バラモンも、神も、魔も、梵天も、そのほかの誰にも、保証できない四つのことが書いてある。

①老いないように
よく言われている神の代行者であるローマ法王も、寿命は一般人と同じ。

②無病

③不死

④因縁から逃げること
行為によって、輪廻転生する。どこに生まれても「生・老・病・死」という、
絶対的な苦しみを味わわなくてはならない。
「結果が現われないように」という希望は叶わない。

あべこべ感覚・真理のまとめ
人間が考えることは「あべこべ」ばかり。
ものごとは瞬間、瞬間の流れであるに過ぎないのに「ものごとはある」「私はいる」と思っている。
人生は「苦」であるのに、「楽」であると思っている。
「生・老・病・死」は必然なのに、なんとか避けようとする。
どのように生きれば「あべこべ感覚」を乗り越えられるかは第5章にある。

第5章 私は死なないという幻想を捨てる

皆は「私は死なない」という幻想を持っている。
いつでも、「今・ここにいる」と実感する。
瞬間、瞬間の死の実感は無い。
何かを見ても、聞いても、味わっても、その裏でずっと「私がいる」という実感がある。
外のものについても、いつでも「今・ここにある」と実感する。

頭で妄想する時、その妄想概念が頭の中に実在する。
妄想は自分にとって本物だから、妄想は危険。
妄想の世界では、思い出さえも「今・ここ」に実在する。
例えば、昔怒ったことを思い出したらまた怒る。

「自分」というものは、ずっと流れているプロセス。
細胞は壊れていって、入れ替わっている。ものを見るたびに自分が変わっていく。
この存在の真理は推測できても実感はできない。
実感できるのは、「自分がいる」という顛倒。

存在は、映画の仕組みのようなもの。
スクリーンに映る光はずっと変わって行くのに、我々には「画像だ」と見えるだけ。
自分のこと、認識のことも、本当は瞬間、瞬間のプロセスの連続なのに、見えない。

一〇年前の自分の細胞は「今・ない」。完全に死んでいる。
でも同じ人だと勘違いしている。
一〇年前と変わらない自分がいると思うことは顛倒。
その顛倒に加えて、見解までつくる。例:「魂があるのだ」。

人間には死にたくないという願望が強烈にある。
生きるというのは、死なないように、ご飯を食べて、呼吸をして、なんとかと手を打つ。
やめたら、すぐ死ぬ。
死の恐怖からの安全対策で死なないと思う。
そう思わないと、怖くてたまらない。人はちょっとしたことでも簡単に死ぬ。
でも、それを思うと、やり切れないので、「そんな簡単には死なない」という巨大妄想の幻覚をつくる。

生命はすぐ死ぬので、これを助けてくれる人というのはありがたいと思い込む。
しかし、ありがたいことがいくらあっても、ありがたくない。
死に対しては、どんなありがたいことも、支えてはくれない。
感謝の気持ちで生活するべきだという話さえもあべこべ。
人は「命を支えてくれるから、ありがたい」と思って、財産に、権力に、家族に、仲間に、自分自身に、執着して生きている。
それに、自分という存在は無常だから、死ぬ。
助けてくれるはずはない。

死なないという思考と事実は対立する。
「私が思うから、それこそが事実だ」という理屈は成り立たない。
生きている中で、「そんなはずではなかった」ということが多い。

死なないという思い込みから苦しみが生まれる。
瞬間、瞬間、なにが起こるのか分からない。
しかし、我々は「都合の悪いことはなにも起こるはずがない」「私は死ぬはずがない」という考えのもとで生きようとする。
なので、怒り、憎み、苦しみ、悩みの底のない穴に落ちる。

暮らしの中で、「どうしてこんなことが起こるのか」と思うことが、精神的に苦しむ。
しかし、別にこの世の中にたいへんなことは一つも起こらない。
例えば、癌だと言われても、じゃあ一番よい方策を取ると言って、それで終わる。
仏教の教えてくれる幸福というのは、こういう気楽さ。

仏教の世界では、嫌なことも、楽なこともない。
例えば、寒い時に、寒いのが嫌だということはない。

死なないという前提だから、人の死が悲しい。
八〇歳のおばあさんでも、亡くなったら周りの人は泣いて悲しむ。

一〇〇パーセントの満足は得られない。
「人生が楽しい」と顛倒していると、生きる上で、喜びや快楽はいっぱいあるのだと勘違いしている。
しかし、自分自身も、外のものも不完全なので、いつも満足には至らない。
すると、「こんなはずではなかった」などと思うわけで、さらに悔しくなる。

人生は楽しいはずなのに、うまくいかないので、悔しくなる。
悔しいので、次こそは、幸福を求める羽目になる。もっと頑張ろうとする。
快楽を求めれば求めるほど、満足するのではなくて、なおさら悪循環が生まれていく。
生きる者は、快楽を得ることこそが正しい道だと思う。
嘘も、盗みも、邪な行為も、殺生、誤魔化し、なんでもオーケー。

原因があって、それによって決まっている結果が起こるわけなので、
行為と結果の法則は自分の希望で変えられない。

人は死なないという思い込みで、「生きるためにはなんでもやってしまってオーケー」という生き方をしている。
攻撃する、戦う、怒る、憎むことなど悪行為をする。
どんどん不幸になる。

あべこべ感覚の不幸に、際限はない。
例えば、あべこべの感覚で、アメリカがイラク戦争を行って、期待通りにならなかった。

「生・老・病・死」は全部おなじこと。瞬間、瞬間、我々は死んでいく。
成長していくと言うし、年をとっていくと言う。
変化していることを病気になると言うし、変化の一過程として、肉体の流れがストップしたところで死んだと言う。

あべこべ感覚で人間は不幸になる。
「すべては変わる、無常だ。」「生きるとは死につつあること」との真理を理解すれば、悪循環が破れる。幸福になる。
我々は瞬間、瞬間で死んでいく、生まれていく。生と死というのは、同じ意味。

「死につつある」と知ると、「生きるためならなんでもやるぞ」という悪循環がなくなる。
落ち着く、気楽になる。無理に挑戦しなくなる。
死なないために、病気にならないために、そのような叶わないことのためには挑戦しない。

死がわかれば悪いことをしなくなる。心がきれいになったということ。
それで、自然に行う善行為の結果で、幸福が流れ込む。

仏教の言う「人生が空しい」という意味は、「人生に価値がない」ということ。

仏教の幸福は気楽に生きること。
世の中でなにか起こっても、悩みの種ではない。何を見ても笑いの原因になる。
たいへんなことはなにも起こらない。

幸・不幸のまとめ
悩み、落ち込み、悔しい気分などは不幸。
逆に、仕事が苦しくても、へっちゃらでやってしまうなどは幸福。

「私は死なない」という顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。
心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。
五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。
心の汚れが消える。解脱に達する。
「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは以上です。ご意見、コメント等があれば、どうぞ書いてください。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように