Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

レポート公開|7/9(日) 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

 

●7/9(日)関西ダンマサークル「zoom茶話会」レポート その➀
※個人の理解と要約です。おかしなところがあれば、ご指摘ください。
・まず皆さんで慈悲の瞑想を行いました。
・今回は、➀エピソードと②七覚支について紹介しました。

・➀エピソード:ダンマパダ136偈の因縁譚「ウワバミ(大蛇)餓鬼の物語」
・テキスト添付します
・ウワバミとは、原語で「ヤギを呑む」という意味。
モッガラーナ尊者が、苦しんでいる巨大なヘビの幽霊を見る。
・そのことをお釈迦様に報告し、お釈迦様がその蛇の幽霊がなぜどういう経緯で苦しんでいるのか説明する。
・そういう設定です。大事なのは設定ではなく、エピソードの内容です。

・過去世:カッサパ仏の時代
・都の門の近くで朝早く、ある泥棒が服で顔を隠し横になっていた。
・その泥棒の姿を長者(金持ち・リッチマン・セレブ)が見て、ひとりごとをつぶやいた。
・「この泥まみれの足をした人は、夜中に歩き回って寝ている人に違いない」と
・泥棒はそれを聞いて、「ほっといてくれ、今に見とけよ」と敵意を覚える。
・そして、その長者を苦しめてやろうと、それぞれ七度、長者の畑を焼き、家畜の足を切断し、屋敷を放火した。
・泥棒はそれでも怒りが治まらなかった。
・長者が一番大事にしているものを壊してやろうと思い立つ。
・長者はブッダの居室をお布施したことがあった。※ブッダの個室を「香堂(香房)Gandhakuti」という。
・泥棒は香堂を燃やしてやろうと計画し火をつける。
・香堂が燃えていると聞いて長者がやってくる
・燃え尽きた香堂を見て、精舎は拍手をする
・近くにいた人々が、拍手している長者を見て「えっ?」とびっくりする。
・周りの人が「自分がお布施した香堂が燃えたのに、なぜ長者は拍手しているのですか?」と聞く
・長者は「自分の財産を捧げ精舎や香堂という稀なお布施をしたが、またもう一度稀なお布施ができるとは、何と嬉しいことか」と答える。
・そして、長者は自分の財産を新たに捧げて香堂をお布施した。
・その経緯を見ていた泥棒が「長者にダメージを与えるには、長者が信頼し大事なお布施をしたブッダを殺そう。そうすれば長者は苦しむだろう」と計画を立てる。
・泥棒は精舎の中をうろつき、ブッダを殺すチャンスをうかがう
・その時、長者がブッダと会話しているのを泥棒が聞く。
・長者「私はある人に、七度にわたって畑を焼かれ、家畜の足を切られ、家が焼かれ、せっかくお布施した香堂も燃やされました。たぶん同じ人でしょう。しかし、私は新たに香堂をお布施した功徳をその人に廻向します」と言った。
・その長者の言葉を聞いた泥棒は、「ああ、オレは何て罰当たりなことをしてしまったのか!今までやったことに怒りすら起こさないで、新たにお布施した功徳をオレに廻向までしてくれる。なんて人に害を与えてしまったのか、ああ。この人に許しを請わなければ、オレには必ず罰がくだるだろう」と改心する。

・泥棒は、長者の前に出て足元にひれ伏して、「旦那さま、私をお許しください」と言った。
・長者は「いったい、どういうことですか?」と聞く
・泥棒が「これまでのことは、私がしたことです。私を許してください」と罪を告白する
・長者は「しかし、私はあなたを見たこともないし、知りません。なぜ私に腹を立てたのですか?」と尋ねた
・泥棒が、都の門のところで寝ていたときに聞いた、長者の言葉を言って思い出させた。
・長者の言葉で、泥棒が怒ったことを長者が知った。
・長者が自分が言った言葉に反省し「そうだった。友よ、確かにそう言った。私の言動が悪かった。許してください」と泥棒に謝罪した。
・泥棒は「お立ち下さい。友よ、あなたを許します」と答えた。
・そして泥棒が「旦那さまがもし私を許してくれるなら、私と妻子をあなたの召使い(奴隷)にしてください」と言った
・長者は「いくらなんでも、それはできません。家族がいるし、あれだけのことをした人と一緒に住むことはできません。それは勘弁してください。さあ、あなたは家に帰ってください」と答えた。

・泥棒は悪行為をし、寿命が尽きると無間(阿鼻/ avīci niraya)地獄に生まれた。
※無間地獄:生命次元の中の極端な苦しみを感じ、苦しみを栄養にして生きる。八大地獄で一番苦しいとされる世界。絶え間なく無制限の苦しみを感じ続け終わらない。苦しみと苦しみの間がないと言われる。
・気が狂うほどの時間、その地獄で焼かれ、業の報いの残りで大蛇の餓鬼に生まれ、今も焼かれて苦しんでいる。
・と、そのような経緯をお釈迦様が説明された。

・お釈迦様の追加の説明として、
・「愚か者たちは、悪いことをしているときは〔自分が悪行為をしていると〕自覚しません。しかし後で、自分が犯した業に焼かれるのは、まるで自分で自分に火を点けるようなものです」と解説されました。
・ダンマパダ136「さて悪い行いをしても、愚か者は目覚めない、智慧乏しい彼は、火に焼かれるが如く、〔自らの〕行為によって苦しむ。と」

※参考テキスト
巻頭法話「悩みは自分の行いから」人は知らず知らず悪い行いをする 
https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou057/
以上

・エピソードの内容な、ざっとそんな内容でした。
・注目したテーマとしては、「自らの行為に自覚がない」という部分です。
・「気づきがない」と言い換えても同じだと思います。
・エピソートの内容から、他にもポイントはあると思います。
・長者の人格のスゴさとか、香堂が燃えたのに拍手するとか、普通ではあり得ないと感じます。
・また長者が自分の言葉が泥棒を苦しめたと、すぐ謝罪した部分も、自分の過ちを認める部分も人格者ですね。
・あとは泥棒が自分の悪行為に気づいて、自覚して、長者に許しを請うたけれど、行為の結果として地獄に堕ちたこと。
・謝ったとしても行為には結果があるので、その報いは条件が揃えば避けられないこと。※ちょっと納得いかないですか?

・このエピソードで泥棒がした悪行為は、七度にわたって長者の畑を焼き、家畜の足を切り、屋敷に放火し、香堂を燃やしたことですが、
・しかし、それ以外に、というか、それ以前にも悪行為があると思いました。
・そもそもの話ですが、泥棒が長者の何気ない言葉を聞いて怒ったこと、それ自体が悪行為だと思います。
・言葉を聞いて怒り、敵意を燃やし続けた(妄想して怒り続けた)こと、そこに自覚がなかった。
・それが原因で、地獄に堕ちるまでの悪行為をしてしまった。
・もちろんこれはエピソードですが、大事だと思うのは「怒り」が起きた瞬間に、自分が怒った自覚がないこと、心が汚れた自覚がないこと
・それこそが、自分に火を点けることになるのだと思いました。
・言葉という音(空気の振動)を聞いて、自分がバカにされた(自我の錯覚)と思い腹が立った。
・相手が金持ちなので、苦しめるために大胆なことをしたが、まったく相手が苦しんでいない、それを見て更に腹が立った。
・相手が一番大事にしているものを奪って、壊してやろうと思って、人を殺そうとまでした。
・そこで相手の言葉の真意を知ることになり、「自分はバカにされたわけじゃなかった」とやっと気づいて、
・これまでやってしまった悪行為を後悔し、謝罪した。
・自分の「怒り(悪行為)」に気づくまで、ものすごく遅かった。

・お釈迦様は「自分の行いについて自覚しなさい、気づきなさい」と教える。それが心を汚さない、苦しみを作らない方法。
・できるだけ早く気づくこと
・遅ければ遅いほど苦しみが大きくなってしまう。
・やはり自覚、気づきが大事です。
・自分も含め、行為において失敗がある。自覚していないのだから、失敗は当たり前。
・であるから、失敗したら素直に謝る(懴悔)。相手の失敗を許してあげる。
・常に行為を失敗するかもしれないと注意し、悪行為にならないように注意し、謙虚でいる。
・そのような前提、心構えが必要と思いました。
・「自覚/気づく」ということについて、次のテーマ「念覚支」にレポート その②につづく

 

 

●7/9(日)関西ダンマサークル「zoom茶話会」レポート その②

皆さんはこのエピソードを、どのように理解し、そこから何を学ぶでしょうか?
新たな視点や気づいたこと、感想でもいいので、何かあれば教えてください。

・「行為への自覚/気づき」について続き
・能力開発、人格成長、人格完成、智慧の発現、真理の発見などと表現される心のある境地/状態に必要な要素として
・七覚支というものがある。そのうちの「念覚支」を紹介した。
・一般的にも自己観察、内観、洞察、注意深くある、今に意識を集中する、自分を知る、客観視、気づき・サティ・正念、四念処などと関連する。
・「気づき」は重大で、すさまじく奥深い

・私たちは、生命体として、また動物として、人間として生きている
・生きているにも関わらず、生きることがどういうことが理解していない。
・試行錯誤してながら生きて、微かな成功と数多くの失敗をしている
・そして、生きることが楽しいとか苦しいと感じている
・基本的には誰でも、生きることは感覚/感情に流され生きているだけ

・仏教では、いきなり答えがある
・生きるとは、知ることであり、認識すること
・生きるとは、行為(身口意)すること
・生きるとは、外界からの刺激を受けて反応すること
・生きるとは、ただそれだけのこと
・そこに意味はなく、延々と流れていくだけのこと(輪廻)
・感覚という刺激に対して無防備
・すべては変化し、止まることなく流転していく
・感覚ある生命にとって、変化することは苦である
・苦とは、不安定であり、期待通りでなく、満足することなく、同時に苦しみと感じてしまう
・変化すること、不安定であることが、なぜ苦しみとなるのか、その原因を知らない
(※苦の原因は渇愛、厳密には無明と渇愛

・生命は生きているのに、誰も生きることがどういうことか知らない。
・ずっと苦を乗り越えられないでいる
・苦しみをなくせないで彷徨っている
・お釈迦様(ブッダ)が、その答えと同時に解決方法を自ら発見した
・仏教は、苦を乗り越える道、苦しみをなくす教え
仏道とは不放逸の実践
・「この法はよく気づく人のものであり、愚か者のものではない」偉大なる人の思考より

・心を成長させるため、苦しみをなくすために必要な七つの要素がある
・それが「七覚支」
・ひとつ目が「念覚支」
・何事も気づくことからはじまる
・では何に気づく必要があるのか?
※瞑想として気づく対象は四つ(身受心法)
・自分が何をしているのか、それに気づく
・自分が何をしているのかとは、行為(身体感覚)のこと
・自分が何をしているのかとは、感受のこと
・自分が何をしているのかとは、感情のこと
・自分が何をしているのかとは、思考のこと
・自分が何をしているのかとは、意志や衝動のこと
・認識メカニズムについて気づく必要がある

・気づき方、気づく方法としては、ありのままに知ること
・それは瞑想で、ヴィパッサナーといわれる方法
ヴィパッサナー瞑想
https://j-theravada.com/world/vipassana/
・妄想、思考、価値観、先入観、バイアス、偏見、予断、解釈など入れずに観ること
・すべての覆いを外し観ること(発見)

・まず身体の動きから観察がはじまる
・身体の動く感覚の流れを追いかけ気づく
・身体の動きの感覚は、感受(苦/楽/不苦不楽)とはちょっと別
・この観察するときに欠かせない道具がある。それは実況中継(ラベリング)
・この道具がなければ、観察自体が難しい(上手く観察できない)
・感覚を捉えることと実況中継が両方あって気づく
・ひたすら今起きている現象、今ある感覚を捉え実況中継していくこと
・これがあまりにシンプルで、難しく感じる。無意味に思える
・「こんなことして何の意味があるのか?」「ただ時間のムダかもしれない?」「全然、智慧が現れた実感がない」「退屈、つまらない」「ねむい」など
・すぐに無知にやられて負けてしまう、常に何かを得たい(得ないとムダ)という意識がある
・実況中継の意義を理解し、実況中継にとことん馴染む、慣れる努力がいる

・気づきの実践、ヴィパッサナー瞑想、実況中継(修行)は、誰かに頼まれてするものではない
・修行は自らの意志で、心の成長のため、苦しみをなくすために励むもの
・お釈迦様や長老がやれと言っているから修行するのでは、仏教徒としてちょっとカッコ悪い
・なぜ修行/瞑想するのか、各自で理解し納得しておく

・実況中継が上手くできると、違う世界が観えてくる
・今まで知らなかった、気づかなかった、新しい自分や反応、認識の流れを知る
・心の状態が明確、クリアになる
・徐々に疑いや迷いがなくなる
・はっきりと自覚できてくる
・次の「択法覚支」に繋がっていく

▼参考書
単行本「ブッダの瞑想レッスン」修行入門一歩前( 国書刊行会、2,420円 )
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4336073791/jtheravada-22/
以上

ちょっと大雑把で、適当に書きましたが、「気づき」のシンプルさと、同時に奥深さを知識として理解することができました。

言葉に囚われる必要がないのですが、気づき・念と一般的に言っていますが、八正道で言えば「正しい気づき」ということで「正念」です。専門的になれば「正念・正知」とも言われます。いわゆる、正念・正知の実践が瞑想と言われるものだと理解しています。

この瞑想法を正しく教える/伝えるのは、相当に難しいことだなと思いました。なぜなら、受け取る方の自分・私たちは、自分の狭い知識で歪曲・矮小化して理解してしまう可能性が高いからです。

せかっく大事なことなのに、「実況中継ってなに?」「本当にこのやり方が正しいの?」「他にやり方があるはずだ」とバカにしてしまっては、もったいないものです。宝物の価値をわからず、安易に捨ててしまうようなものと思います。

そうならないように、ちょっと踏ん張って瞑想に取り組んでみれば、心の成長を実感できる、苦が減り楽を感じる、どう生きれば良いか発見できるのだと思います。互いに励まし合いながら精進しましょう。長々と失礼しました。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように