Māyādevī Vihāra blog

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レポート公開|7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「あべこべ感覚」第4、5章(最終回)


今回の読書会(「あべこべ感覚」第4章と第5章)の結論は下記の朱字で先に示します。
経典に書いてあるあり得ない五つの期待は「生まれないように」「老いないように」「病まないように」「死なないように」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないように」との期待。別の経典にある四つの保証適用外は「老いないように」「無病」「不死」「因縁から逃げること」。人間はあべこべ感覚で叶わないことばかり期待する。
皆は「私は死なない」という幻想を持っている。この顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。心の汚れが消える。解脱に達する。「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは長文になりますが、よければ読んでみてください。

▼ 2023/7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

今回のテキスト「あべこべ感覚」(サンガ)※電子書籍なし
第4章 あり得ない期待、保証されない願望
第5章 私は死なないという幻想を捨てる

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第4章 あり得ない期待、保証されない願望

経典では、あり得ない期待・願望が五つある。

①「生まれないようにとの期待」
「生」はめでたいことなのに、なぜ『苦』だと言うのか。
生まれるという必然からは逃れられない。
誕生した瞬間から人生は絶えず生まれつつ。体も環境も変化して行く。
「生」といえば誕生のことのみではなく、つねに「生」がある。
変化とは、新しい状況が生まれること。
変化したくないはあり得ない期待。
「死んだら終わりだ」という考えもあべこべ。

②「老いないようにとの期待」
「老いる」ということは、お腹の中に命が現われた瞬間から起こってる。
さいころは「成長」を喜ぶ。しかし、三〇、四〇、五〇歳ぐらいになってくると「年はとりたくない」と思い始める。
老いること自体は本当は苦しみではない。「老いないように」との期待こそが苦しみ。

③「病まないようにとの期待」
誰でもずっと健康でありますようにと期待する。
しかし、病気にならないでいることは叶わない。

④「死なないようにとの期待」
誰も死にたくない。
他の宗教は、永遠の命、天国に行ったら死なない等と教える。
しかし、仏教では、死にたくないという願望は叶わない。天国に行っても死ぬ。

⑤「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないようにとの期待」
憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みは誰にとっても嫌なもの。
それが起こらないようにとの期待は叶わない。

生きているもの、人間にとって「生・老・病・死」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩み」は全部セット。
しかし、人間は生きる本質ではないものを期待する。

「苦」という真理・本質はなくならない。
苦が命をつくって、命を管理して司って、苦のために生きている。

上記の五つの期待は生命の本質だから、期待しても無駄。
他の願望は叶うのだから、ほかのところで頑張ればよい。
しかし、人は叶わないことばかり期待する。

その五つ以外のことは、条件さえそろえれば叶う。
条件とは「希望が現実的であること」と「因果法則をわかっていること」。
目的を目指して達成に見合うだけの努力をすれば、期待や願望はことごとく叶う。

仏教の道は必勝の道。具体的な期待しか作らない。
例えば、今より広い部屋に住みたいから、もうちょっとよい仕事に行かないといけない等と考えて暮らす。
目的を設定し、挑戦する。しかし、執着しないで頑張る。
仏教の人は生きることに執着しないが、失敗せずに一生懸命やるべきことをやる。

別の経典に、沙門も、バラモンも、神も、魔も、梵天も、そのほかの誰にも、保証できない四つのことが書いてある。

①老いないように
よく言われている神の代行者であるローマ法王も、寿命は一般人と同じ。

②無病

③不死

④因縁から逃げること
行為によって、輪廻転生する。どこに生まれても「生・老・病・死」という、
絶対的な苦しみを味わわなくてはならない。
「結果が現われないように」という希望は叶わない。

あべこべ感覚・真理のまとめ
人間が考えることは「あべこべ」ばかり。
ものごとは瞬間、瞬間の流れであるに過ぎないのに「ものごとはある」「私はいる」と思っている。
人生は「苦」であるのに、「楽」であると思っている。
「生・老・病・死」は必然なのに、なんとか避けようとする。
どのように生きれば「あべこべ感覚」を乗り越えられるかは第5章にある。

第5章 私は死なないという幻想を捨てる

皆は「私は死なない」という幻想を持っている。
いつでも、「今・ここにいる」と実感する。
瞬間、瞬間の死の実感は無い。
何かを見ても、聞いても、味わっても、その裏でずっと「私がいる」という実感がある。
外のものについても、いつでも「今・ここにある」と実感する。

頭で妄想する時、その妄想概念が頭の中に実在する。
妄想は自分にとって本物だから、妄想は危険。
妄想の世界では、思い出さえも「今・ここ」に実在する。
例えば、昔怒ったことを思い出したらまた怒る。

「自分」というものは、ずっと流れているプロセス。
細胞は壊れていって、入れ替わっている。ものを見るたびに自分が変わっていく。
この存在の真理は推測できても実感はできない。
実感できるのは、「自分がいる」という顛倒。

存在は、映画の仕組みのようなもの。
スクリーンに映る光はずっと変わって行くのに、我々には「画像だ」と見えるだけ。
自分のこと、認識のことも、本当は瞬間、瞬間のプロセスの連続なのに、見えない。

一〇年前の自分の細胞は「今・ない」。完全に死んでいる。
でも同じ人だと勘違いしている。
一〇年前と変わらない自分がいると思うことは顛倒。
その顛倒に加えて、見解までつくる。例:「魂があるのだ」。

人間には死にたくないという願望が強烈にある。
生きるというのは、死なないように、ご飯を食べて、呼吸をして、なんとかと手を打つ。
やめたら、すぐ死ぬ。
死の恐怖からの安全対策で死なないと思う。
そう思わないと、怖くてたまらない。人はちょっとしたことでも簡単に死ぬ。
でも、それを思うと、やり切れないので、「そんな簡単には死なない」という巨大妄想の幻覚をつくる。

生命はすぐ死ぬので、これを助けてくれる人というのはありがたいと思い込む。
しかし、ありがたいことがいくらあっても、ありがたくない。
死に対しては、どんなありがたいことも、支えてはくれない。
感謝の気持ちで生活するべきだという話さえもあべこべ。
人は「命を支えてくれるから、ありがたい」と思って、財産に、権力に、家族に、仲間に、自分自身に、執着して生きている。
それに、自分という存在は無常だから、死ぬ。
助けてくれるはずはない。

死なないという思考と事実は対立する。
「私が思うから、それこそが事実だ」という理屈は成り立たない。
生きている中で、「そんなはずではなかった」ということが多い。

死なないという思い込みから苦しみが生まれる。
瞬間、瞬間、なにが起こるのか分からない。
しかし、我々は「都合の悪いことはなにも起こるはずがない」「私は死ぬはずがない」という考えのもとで生きようとする。
なので、怒り、憎み、苦しみ、悩みの底のない穴に落ちる。

暮らしの中で、「どうしてこんなことが起こるのか」と思うことが、精神的に苦しむ。
しかし、別にこの世の中にたいへんなことは一つも起こらない。
例えば、癌だと言われても、じゃあ一番よい方策を取ると言って、それで終わる。
仏教の教えてくれる幸福というのは、こういう気楽さ。

仏教の世界では、嫌なことも、楽なこともない。
例えば、寒い時に、寒いのが嫌だということはない。

死なないという前提だから、人の死が悲しい。
八〇歳のおばあさんでも、亡くなったら周りの人は泣いて悲しむ。

一〇〇パーセントの満足は得られない。
「人生が楽しい」と顛倒していると、生きる上で、喜びや快楽はいっぱいあるのだと勘違いしている。
しかし、自分自身も、外のものも不完全なので、いつも満足には至らない。
すると、「こんなはずではなかった」などと思うわけで、さらに悔しくなる。

人生は楽しいはずなのに、うまくいかないので、悔しくなる。
悔しいので、次こそは、幸福を求める羽目になる。もっと頑張ろうとする。
快楽を求めれば求めるほど、満足するのではなくて、なおさら悪循環が生まれていく。
生きる者は、快楽を得ることこそが正しい道だと思う。
嘘も、盗みも、邪な行為も、殺生、誤魔化し、なんでもオーケー。

原因があって、それによって決まっている結果が起こるわけなので、
行為と結果の法則は自分の希望で変えられない。

人は死なないという思い込みで、「生きるためにはなんでもやってしまってオーケー」という生き方をしている。
攻撃する、戦う、怒る、憎むことなど悪行為をする。
どんどん不幸になる。

あべこべ感覚の不幸に、際限はない。
例えば、あべこべの感覚で、アメリカがイラク戦争を行って、期待通りにならなかった。

「生・老・病・死」は全部おなじこと。瞬間、瞬間、我々は死んでいく。
成長していくと言うし、年をとっていくと言う。
変化していることを病気になると言うし、変化の一過程として、肉体の流れがストップしたところで死んだと言う。

あべこべ感覚で人間は不幸になる。
「すべては変わる、無常だ。」「生きるとは死につつあること」との真理を理解すれば、悪循環が破れる。幸福になる。
我々は瞬間、瞬間で死んでいく、生まれていく。生と死というのは、同じ意味。

「死につつある」と知ると、「生きるためならなんでもやるぞ」という悪循環がなくなる。
落ち着く、気楽になる。無理に挑戦しなくなる。
死なないために、病気にならないために、そのような叶わないことのためには挑戦しない。

死がわかれば悪いことをしなくなる。心がきれいになったということ。
それで、自然に行う善行為の結果で、幸福が流れ込む。

仏教の言う「人生が空しい」という意味は、「人生に価値がない」ということ。

仏教の幸福は気楽に生きること。
世の中でなにか起こっても、悩みの種ではない。何を見ても笑いの原因になる。
たいへんなことはなにも起こらない。

幸・不幸のまとめ
悩み、落ち込み、悔しい気分などは不幸。
逆に、仕事が苦しくても、へっちゃらでやってしまうなどは幸福。

「私は死なない」という顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。
心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。
五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。
心の汚れが消える。解脱に達する。
「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは以上です。ご意見、コメント等があれば、どうぞ書いてください。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように