Māyādevī Vihāra blog

マーヤーデーヴィー精舎ブログ

レポート公開|7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」※テキスト「あべこべ感覚」第4、5章(最終回)


今回の読書会(「あべこべ感覚」第4章と第5章)の結論は下記の朱字で先に示します。
経典に書いてあるあり得ない五つの期待は「生まれないように」「老いないように」「病まないように」「死なないように」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないように」との期待。別の経典にある四つの保証適用外は「老いないように」「無病」「不死」「因縁から逃げること」。人間はあべこべ感覚で叶わないことばかり期待する。
皆は「私は死なない」という幻想を持っている。この顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。心の汚れが消える。解脱に達する。「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは長文になりますが、よければ読んでみてください。

▼ 2023/7/29(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

今回のテキスト「あべこべ感覚」(サンガ)※電子書籍なし
第4章 あり得ない期待、保証されない願望
第5章 私は死なないという幻想を捨てる

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901679716/jtheravada-22/

 

第4章 あり得ない期待、保証されない願望

経典では、あり得ない期待・願望が五つある。

①「生まれないようにとの期待」
「生」はめでたいことなのに、なぜ『苦』だと言うのか。
生まれるという必然からは逃れられない。
誕生した瞬間から人生は絶えず生まれつつ。体も環境も変化して行く。
「生」といえば誕生のことのみではなく、つねに「生」がある。
変化とは、新しい状況が生まれること。
変化したくないはあり得ない期待。
「死んだら終わりだ」という考えもあべこべ。

②「老いないようにとの期待」
「老いる」ということは、お腹の中に命が現われた瞬間から起こってる。
さいころは「成長」を喜ぶ。しかし、三〇、四〇、五〇歳ぐらいになってくると「年はとりたくない」と思い始める。
老いること自体は本当は苦しみではない。「老いないように」との期待こそが苦しみ。

③「病まないようにとの期待」
誰でもずっと健康でありますようにと期待する。
しかし、病気にならないでいることは叶わない。

④「死なないようにとの期待」
誰も死にたくない。
他の宗教は、永遠の命、天国に行ったら死なない等と教える。
しかし、仏教では、死にたくないという願望は叶わない。天国に行っても死ぬ。

⑤「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みが起こらないようにとの期待」
憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩みは誰にとっても嫌なもの。
それが起こらないようにとの期待は叶わない。

生きているもの、人間にとって「生・老・病・死」「憂い・嘆き・苦しみ・悲しみ・悩み」は全部セット。
しかし、人間は生きる本質ではないものを期待する。

「苦」という真理・本質はなくならない。
苦が命をつくって、命を管理して司って、苦のために生きている。

上記の五つの期待は生命の本質だから、期待しても無駄。
他の願望は叶うのだから、ほかのところで頑張ればよい。
しかし、人は叶わないことばかり期待する。

その五つ以外のことは、条件さえそろえれば叶う。
条件とは「希望が現実的であること」と「因果法則をわかっていること」。
目的を目指して達成に見合うだけの努力をすれば、期待や願望はことごとく叶う。

仏教の道は必勝の道。具体的な期待しか作らない。
例えば、今より広い部屋に住みたいから、もうちょっとよい仕事に行かないといけない等と考えて暮らす。
目的を設定し、挑戦する。しかし、執着しないで頑張る。
仏教の人は生きることに執着しないが、失敗せずに一生懸命やるべきことをやる。

別の経典に、沙門も、バラモンも、神も、魔も、梵天も、そのほかの誰にも、保証できない四つのことが書いてある。

①老いないように
よく言われている神の代行者であるローマ法王も、寿命は一般人と同じ。

②無病

③不死

④因縁から逃げること
行為によって、輪廻転生する。どこに生まれても「生・老・病・死」という、
絶対的な苦しみを味わわなくてはならない。
「結果が現われないように」という希望は叶わない。

あべこべ感覚・真理のまとめ
人間が考えることは「あべこべ」ばかり。
ものごとは瞬間、瞬間の流れであるに過ぎないのに「ものごとはある」「私はいる」と思っている。
人生は「苦」であるのに、「楽」であると思っている。
「生・老・病・死」は必然なのに、なんとか避けようとする。
どのように生きれば「あべこべ感覚」を乗り越えられるかは第5章にある。

第5章 私は死なないという幻想を捨てる

皆は「私は死なない」という幻想を持っている。
いつでも、「今・ここにいる」と実感する。
瞬間、瞬間の死の実感は無い。
何かを見ても、聞いても、味わっても、その裏でずっと「私がいる」という実感がある。
外のものについても、いつでも「今・ここにある」と実感する。

頭で妄想する時、その妄想概念が頭の中に実在する。
妄想は自分にとって本物だから、妄想は危険。
妄想の世界では、思い出さえも「今・ここ」に実在する。
例えば、昔怒ったことを思い出したらまた怒る。

「自分」というものは、ずっと流れているプロセス。
細胞は壊れていって、入れ替わっている。ものを見るたびに自分が変わっていく。
この存在の真理は推測できても実感はできない。
実感できるのは、「自分がいる」という顛倒。

存在は、映画の仕組みのようなもの。
スクリーンに映る光はずっと変わって行くのに、我々には「画像だ」と見えるだけ。
自分のこと、認識のことも、本当は瞬間、瞬間のプロセスの連続なのに、見えない。

一〇年前の自分の細胞は「今・ない」。完全に死んでいる。
でも同じ人だと勘違いしている。
一〇年前と変わらない自分がいると思うことは顛倒。
その顛倒に加えて、見解までつくる。例:「魂があるのだ」。

人間には死にたくないという願望が強烈にある。
生きるというのは、死なないように、ご飯を食べて、呼吸をして、なんとかと手を打つ。
やめたら、すぐ死ぬ。
死の恐怖からの安全対策で死なないと思う。
そう思わないと、怖くてたまらない。人はちょっとしたことでも簡単に死ぬ。
でも、それを思うと、やり切れないので、「そんな簡単には死なない」という巨大妄想の幻覚をつくる。

生命はすぐ死ぬので、これを助けてくれる人というのはありがたいと思い込む。
しかし、ありがたいことがいくらあっても、ありがたくない。
死に対しては、どんなありがたいことも、支えてはくれない。
感謝の気持ちで生活するべきだという話さえもあべこべ。
人は「命を支えてくれるから、ありがたい」と思って、財産に、権力に、家族に、仲間に、自分自身に、執着して生きている。
それに、自分という存在は無常だから、死ぬ。
助けてくれるはずはない。

死なないという思考と事実は対立する。
「私が思うから、それこそが事実だ」という理屈は成り立たない。
生きている中で、「そんなはずではなかった」ということが多い。

死なないという思い込みから苦しみが生まれる。
瞬間、瞬間、なにが起こるのか分からない。
しかし、我々は「都合の悪いことはなにも起こるはずがない」「私は死ぬはずがない」という考えのもとで生きようとする。
なので、怒り、憎み、苦しみ、悩みの底のない穴に落ちる。

暮らしの中で、「どうしてこんなことが起こるのか」と思うことが、精神的に苦しむ。
しかし、別にこの世の中にたいへんなことは一つも起こらない。
例えば、癌だと言われても、じゃあ一番よい方策を取ると言って、それで終わる。
仏教の教えてくれる幸福というのは、こういう気楽さ。

仏教の世界では、嫌なことも、楽なこともない。
例えば、寒い時に、寒いのが嫌だということはない。

死なないという前提だから、人の死が悲しい。
八〇歳のおばあさんでも、亡くなったら周りの人は泣いて悲しむ。

一〇〇パーセントの満足は得られない。
「人生が楽しい」と顛倒していると、生きる上で、喜びや快楽はいっぱいあるのだと勘違いしている。
しかし、自分自身も、外のものも不完全なので、いつも満足には至らない。
すると、「こんなはずではなかった」などと思うわけで、さらに悔しくなる。

人生は楽しいはずなのに、うまくいかないので、悔しくなる。
悔しいので、次こそは、幸福を求める羽目になる。もっと頑張ろうとする。
快楽を求めれば求めるほど、満足するのではなくて、なおさら悪循環が生まれていく。
生きる者は、快楽を得ることこそが正しい道だと思う。
嘘も、盗みも、邪な行為も、殺生、誤魔化し、なんでもオーケー。

原因があって、それによって決まっている結果が起こるわけなので、
行為と結果の法則は自分の希望で変えられない。

人は死なないという思い込みで、「生きるためにはなんでもやってしまってオーケー」という生き方をしている。
攻撃する、戦う、怒る、憎むことなど悪行為をする。
どんどん不幸になる。

あべこべ感覚の不幸に、際限はない。
例えば、あべこべの感覚で、アメリカがイラク戦争を行って、期待通りにならなかった。

「生・老・病・死」は全部おなじこと。瞬間、瞬間、我々は死んでいく。
成長していくと言うし、年をとっていくと言う。
変化していることを病気になると言うし、変化の一過程として、肉体の流れがストップしたところで死んだと言う。

あべこべ感覚で人間は不幸になる。
「すべては変わる、無常だ。」「生きるとは死につつあること」との真理を理解すれば、悪循環が破れる。幸福になる。
我々は瞬間、瞬間で死んでいく、生まれていく。生と死というのは、同じ意味。

「死につつある」と知ると、「生きるためならなんでもやるぞ」という悪循環がなくなる。
落ち着く、気楽になる。無理に挑戦しなくなる。
死なないために、病気にならないために、そのような叶わないことのためには挑戦しない。

死がわかれば悪いことをしなくなる。心がきれいになったということ。
それで、自然に行う善行為の結果で、幸福が流れ込む。

仏教の言う「人生が空しい」という意味は、「人生に価値がない」ということ。

仏教の幸福は気楽に生きること。
世の中でなにか起こっても、悩みの種ではない。何を見ても笑いの原因になる。
たいへんなことはなにも起こらない。

幸・不幸のまとめ
悩み、落ち込み、悔しい気分などは不幸。
逆に、仕事が苦しくても、へっちゃらでやってしまうなどは幸福。

「私は死なない」という顛倒を見直し、「私は死につつある」という真理を知れば、精神的な病気も無知もなくなる。
心が健全になって、能力が向上すれば、努力は実る。
五つのあり得ない期待は叶わないが、他のことに関しては、努力によってなんでも実る。
心の汚れが消える。解脱に達する。
「死につつある」と理解することが死を乗り越える第一歩なのだ。

レポートは以上です。ご意見、コメント等があれば、どうぞ書いてください。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|7/9(日) 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

 

●7/9(日)関西ダンマサークル「zoom茶話会」レポート その➀
※個人の理解と要約です。おかしなところがあれば、ご指摘ください。
・まず皆さんで慈悲の瞑想を行いました。
・今回は、➀エピソードと②七覚支について紹介しました。

・➀エピソード:ダンマパダ136偈の因縁譚「ウワバミ(大蛇)餓鬼の物語」
・テキスト添付します
・ウワバミとは、原語で「ヤギを呑む」という意味。
モッガラーナ尊者が、苦しんでいる巨大なヘビの幽霊を見る。
・そのことをお釈迦様に報告し、お釈迦様がその蛇の幽霊がなぜどういう経緯で苦しんでいるのか説明する。
・そういう設定です。大事なのは設定ではなく、エピソードの内容です。

・過去世:カッサパ仏の時代
・都の門の近くで朝早く、ある泥棒が服で顔を隠し横になっていた。
・その泥棒の姿を長者(金持ち・リッチマン・セレブ)が見て、ひとりごとをつぶやいた。
・「この泥まみれの足をした人は、夜中に歩き回って寝ている人に違いない」と
・泥棒はそれを聞いて、「ほっといてくれ、今に見とけよ」と敵意を覚える。
・そして、その長者を苦しめてやろうと、それぞれ七度、長者の畑を焼き、家畜の足を切断し、屋敷を放火した。
・泥棒はそれでも怒りが治まらなかった。
・長者が一番大事にしているものを壊してやろうと思い立つ。
・長者はブッダの居室をお布施したことがあった。※ブッダの個室を「香堂(香房)Gandhakuti」という。
・泥棒は香堂を燃やしてやろうと計画し火をつける。
・香堂が燃えていると聞いて長者がやってくる
・燃え尽きた香堂を見て、精舎は拍手をする
・近くにいた人々が、拍手している長者を見て「えっ?」とびっくりする。
・周りの人が「自分がお布施した香堂が燃えたのに、なぜ長者は拍手しているのですか?」と聞く
・長者は「自分の財産を捧げ精舎や香堂という稀なお布施をしたが、またもう一度稀なお布施ができるとは、何と嬉しいことか」と答える。
・そして、長者は自分の財産を新たに捧げて香堂をお布施した。
・その経緯を見ていた泥棒が「長者にダメージを与えるには、長者が信頼し大事なお布施をしたブッダを殺そう。そうすれば長者は苦しむだろう」と計画を立てる。
・泥棒は精舎の中をうろつき、ブッダを殺すチャンスをうかがう
・その時、長者がブッダと会話しているのを泥棒が聞く。
・長者「私はある人に、七度にわたって畑を焼かれ、家畜の足を切られ、家が焼かれ、せっかくお布施した香堂も燃やされました。たぶん同じ人でしょう。しかし、私は新たに香堂をお布施した功徳をその人に廻向します」と言った。
・その長者の言葉を聞いた泥棒は、「ああ、オレは何て罰当たりなことをしてしまったのか!今までやったことに怒りすら起こさないで、新たにお布施した功徳をオレに廻向までしてくれる。なんて人に害を与えてしまったのか、ああ。この人に許しを請わなければ、オレには必ず罰がくだるだろう」と改心する。

・泥棒は、長者の前に出て足元にひれ伏して、「旦那さま、私をお許しください」と言った。
・長者は「いったい、どういうことですか?」と聞く
・泥棒が「これまでのことは、私がしたことです。私を許してください」と罪を告白する
・長者は「しかし、私はあなたを見たこともないし、知りません。なぜ私に腹を立てたのですか?」と尋ねた
・泥棒が、都の門のところで寝ていたときに聞いた、長者の言葉を言って思い出させた。
・長者の言葉で、泥棒が怒ったことを長者が知った。
・長者が自分が言った言葉に反省し「そうだった。友よ、確かにそう言った。私の言動が悪かった。許してください」と泥棒に謝罪した。
・泥棒は「お立ち下さい。友よ、あなたを許します」と答えた。
・そして泥棒が「旦那さまがもし私を許してくれるなら、私と妻子をあなたの召使い(奴隷)にしてください」と言った
・長者は「いくらなんでも、それはできません。家族がいるし、あれだけのことをした人と一緒に住むことはできません。それは勘弁してください。さあ、あなたは家に帰ってください」と答えた。

・泥棒は悪行為をし、寿命が尽きると無間(阿鼻/ avīci niraya)地獄に生まれた。
※無間地獄:生命次元の中の極端な苦しみを感じ、苦しみを栄養にして生きる。八大地獄で一番苦しいとされる世界。絶え間なく無制限の苦しみを感じ続け終わらない。苦しみと苦しみの間がないと言われる。
・気が狂うほどの時間、その地獄で焼かれ、業の報いの残りで大蛇の餓鬼に生まれ、今も焼かれて苦しんでいる。
・と、そのような経緯をお釈迦様が説明された。

・お釈迦様の追加の説明として、
・「愚か者たちは、悪いことをしているときは〔自分が悪行為をしていると〕自覚しません。しかし後で、自分が犯した業に焼かれるのは、まるで自分で自分に火を点けるようなものです」と解説されました。
・ダンマパダ136「さて悪い行いをしても、愚か者は目覚めない、智慧乏しい彼は、火に焼かれるが如く、〔自らの〕行為によって苦しむ。と」

※参考テキスト
巻頭法話「悩みは自分の行いから」人は知らず知らず悪い行いをする 
https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou057/
以上

・エピソードの内容な、ざっとそんな内容でした。
・注目したテーマとしては、「自らの行為に自覚がない」という部分です。
・「気づきがない」と言い換えても同じだと思います。
・エピソートの内容から、他にもポイントはあると思います。
・長者の人格のスゴさとか、香堂が燃えたのに拍手するとか、普通ではあり得ないと感じます。
・また長者が自分の言葉が泥棒を苦しめたと、すぐ謝罪した部分も、自分の過ちを認める部分も人格者ですね。
・あとは泥棒が自分の悪行為に気づいて、自覚して、長者に許しを請うたけれど、行為の結果として地獄に堕ちたこと。
・謝ったとしても行為には結果があるので、その報いは条件が揃えば避けられないこと。※ちょっと納得いかないですか?

・このエピソードで泥棒がした悪行為は、七度にわたって長者の畑を焼き、家畜の足を切り、屋敷に放火し、香堂を燃やしたことですが、
・しかし、それ以外に、というか、それ以前にも悪行為があると思いました。
・そもそもの話ですが、泥棒が長者の何気ない言葉を聞いて怒ったこと、それ自体が悪行為だと思います。
・言葉を聞いて怒り、敵意を燃やし続けた(妄想して怒り続けた)こと、そこに自覚がなかった。
・それが原因で、地獄に堕ちるまでの悪行為をしてしまった。
・もちろんこれはエピソードですが、大事だと思うのは「怒り」が起きた瞬間に、自分が怒った自覚がないこと、心が汚れた自覚がないこと
・それこそが、自分に火を点けることになるのだと思いました。
・言葉という音(空気の振動)を聞いて、自分がバカにされた(自我の錯覚)と思い腹が立った。
・相手が金持ちなので、苦しめるために大胆なことをしたが、まったく相手が苦しんでいない、それを見て更に腹が立った。
・相手が一番大事にしているものを奪って、壊してやろうと思って、人を殺そうとまでした。
・そこで相手の言葉の真意を知ることになり、「自分はバカにされたわけじゃなかった」とやっと気づいて、
・これまでやってしまった悪行為を後悔し、謝罪した。
・自分の「怒り(悪行為)」に気づくまで、ものすごく遅かった。

・お釈迦様は「自分の行いについて自覚しなさい、気づきなさい」と教える。それが心を汚さない、苦しみを作らない方法。
・できるだけ早く気づくこと
・遅ければ遅いほど苦しみが大きくなってしまう。
・やはり自覚、気づきが大事です。
・自分も含め、行為において失敗がある。自覚していないのだから、失敗は当たり前。
・であるから、失敗したら素直に謝る(懴悔)。相手の失敗を許してあげる。
・常に行為を失敗するかもしれないと注意し、悪行為にならないように注意し、謙虚でいる。
・そのような前提、心構えが必要と思いました。
・「自覚/気づく」ということについて、次のテーマ「念覚支」にレポート その②につづく

 

 

●7/9(日)関西ダンマサークル「zoom茶話会」レポート その②

皆さんはこのエピソードを、どのように理解し、そこから何を学ぶでしょうか?
新たな視点や気づいたこと、感想でもいいので、何かあれば教えてください。

・「行為への自覚/気づき」について続き
・能力開発、人格成長、人格完成、智慧の発現、真理の発見などと表現される心のある境地/状態に必要な要素として
・七覚支というものがある。そのうちの「念覚支」を紹介した。
・一般的にも自己観察、内観、洞察、注意深くある、今に意識を集中する、自分を知る、客観視、気づき・サティ・正念、四念処などと関連する。
・「気づき」は重大で、すさまじく奥深い

・私たちは、生命体として、また動物として、人間として生きている
・生きているにも関わらず、生きることがどういうことが理解していない。
・試行錯誤してながら生きて、微かな成功と数多くの失敗をしている
・そして、生きることが楽しいとか苦しいと感じている
・基本的には誰でも、生きることは感覚/感情に流され生きているだけ

・仏教では、いきなり答えがある
・生きるとは、知ることであり、認識すること
・生きるとは、行為(身口意)すること
・生きるとは、外界からの刺激を受けて反応すること
・生きるとは、ただそれだけのこと
・そこに意味はなく、延々と流れていくだけのこと(輪廻)
・感覚という刺激に対して無防備
・すべては変化し、止まることなく流転していく
・感覚ある生命にとって、変化することは苦である
・苦とは、不安定であり、期待通りでなく、満足することなく、同時に苦しみと感じてしまう
・変化すること、不安定であることが、なぜ苦しみとなるのか、その原因を知らない
(※苦の原因は渇愛、厳密には無明と渇愛

・生命は生きているのに、誰も生きることがどういうことか知らない。
・ずっと苦を乗り越えられないでいる
・苦しみをなくせないで彷徨っている
・お釈迦様(ブッダ)が、その答えと同時に解決方法を自ら発見した
・仏教は、苦を乗り越える道、苦しみをなくす教え
仏道とは不放逸の実践
・「この法はよく気づく人のものであり、愚か者のものではない」偉大なる人の思考より

・心を成長させるため、苦しみをなくすために必要な七つの要素がある
・それが「七覚支」
・ひとつ目が「念覚支」
・何事も気づくことからはじまる
・では何に気づく必要があるのか?
※瞑想として気づく対象は四つ(身受心法)
・自分が何をしているのか、それに気づく
・自分が何をしているのかとは、行為(身体感覚)のこと
・自分が何をしているのかとは、感受のこと
・自分が何をしているのかとは、感情のこと
・自分が何をしているのかとは、思考のこと
・自分が何をしているのかとは、意志や衝動のこと
・認識メカニズムについて気づく必要がある

・気づき方、気づく方法としては、ありのままに知ること
・それは瞑想で、ヴィパッサナーといわれる方法
ヴィパッサナー瞑想
https://j-theravada.com/world/vipassana/
・妄想、思考、価値観、先入観、バイアス、偏見、予断、解釈など入れずに観ること
・すべての覆いを外し観ること(発見)

・まず身体の動きから観察がはじまる
・身体の動く感覚の流れを追いかけ気づく
・身体の動きの感覚は、感受(苦/楽/不苦不楽)とはちょっと別
・この観察するときに欠かせない道具がある。それは実況中継(ラベリング)
・この道具がなければ、観察自体が難しい(上手く観察できない)
・感覚を捉えることと実況中継が両方あって気づく
・ひたすら今起きている現象、今ある感覚を捉え実況中継していくこと
・これがあまりにシンプルで、難しく感じる。無意味に思える
・「こんなことして何の意味があるのか?」「ただ時間のムダかもしれない?」「全然、智慧が現れた実感がない」「退屈、つまらない」「ねむい」など
・すぐに無知にやられて負けてしまう、常に何かを得たい(得ないとムダ)という意識がある
・実況中継の意義を理解し、実況中継にとことん馴染む、慣れる努力がいる

・気づきの実践、ヴィパッサナー瞑想、実況中継(修行)は、誰かに頼まれてするものではない
・修行は自らの意志で、心の成長のため、苦しみをなくすために励むもの
・お釈迦様や長老がやれと言っているから修行するのでは、仏教徒としてちょっとカッコ悪い
・なぜ修行/瞑想するのか、各自で理解し納得しておく

・実況中継が上手くできると、違う世界が観えてくる
・今まで知らなかった、気づかなかった、新しい自分や反応、認識の流れを知る
・心の状態が明確、クリアになる
・徐々に疑いや迷いがなくなる
・はっきりと自覚できてくる
・次の「択法覚支」に繋がっていく

▼参考書
単行本「ブッダの瞑想レッスン」修行入門一歩前( 国書刊行会、2,420円 )
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4336073791/jtheravada-22/
以上

ちょっと大雑把で、適当に書きましたが、「気づき」のシンプルさと、同時に奥深さを知識として理解することができました。

言葉に囚われる必要がないのですが、気づき・念と一般的に言っていますが、八正道で言えば「正しい気づき」ということで「正念」です。専門的になれば「正念・正知」とも言われます。いわゆる、正念・正知の実践が瞑想と言われるものだと理解しています。

この瞑想法を正しく教える/伝えるのは、相当に難しいことだなと思いました。なぜなら、受け取る方の自分・私たちは、自分の狭い知識で歪曲・矮小化して理解してしまう可能性が高いからです。

せかっく大事なことなのに、「実況中継ってなに?」「本当にこのやり方が正しいの?」「他にやり方があるはずだ」とバカにしてしまっては、もったいないものです。宝物の価値をわからず、安易に捨ててしまうようなものと思います。

そうならないように、ちょっと踏ん張って瞑想に取り組んでみれば、心の成長を実感できる、苦が減り楽を感じる、どう生きれば良いか発見できるのだと思います。互いに励まし合いながら精進しましょう。長々と失礼しました。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

 

レポート公開|6/10(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」

 

▼6/10(土)関西ダンマサークル「zoom読書会」
・新書「あべこべ感覚」第二章と第三章を輪読
・ちなみに「あべこべ感覚」は、2008年1/27にかやの木会館で行われた法話が元になっていました。

・まず心という認識機能は、常に「捏造」して知る
・捏造とは、情報を改ざん・誤魔化すこと
・生命は皆、自分の都合により知る。これ捏造
・捏造しない瞬間はない
・捏造を止めれば、真理がわかる・覚りに達する
・現象とは、常に生滅変化する流れ
・現象は「ある」わけでもなく、「ない」わけでもなく
・一時的に成り立っている(因果の)流れ
・幸福/不幸/花/家/犬/私/おいしい/キレイ/楽しい、すべては認識による捏造世界
・捏造していることによって、ありのままに見えない、知らない
・捏造することは、とても悪行為であり、不幸の源

・この第二章で、頭を何度も殴られた気分になりました
・もう立ち上がれないぐらい、「捏造することは悪い」と言われ
・しかし、生命(私)は常に捏造している、一瞬でも捏造を止めない
・はい、今も捏造している。その次も捏造、次も捏造、ずっと捏造して認識している
・捏造(妄想)が諸悪の根源だということです

・六根(眼耳鼻舌身意)に常にデータ(刺激)が触れています
・それを自分の都合によって認識します(捏造)
・それを知識として、判断として、思考して、生きています
・それらが、まさか捏造だと思いもよりません
・いきなり、こんな話を聞いたら、「仏教はいったい何を教えているのか!危ないぞ」と思われるかもしれません

・しかし、生命が誰も気づかない、自覚できない、知りもしないことを、お釈迦様は発見したのです。
・認識機能に問題があるということをです
・捏造は六根にデータが触れた瞬間から起っています
・捏造しないことは、この上のない幸福、安らぎです
・一回でも、一瞬でも、捏造機能を停止させれば智慧が現れる
ヴィパッサナー瞑想とは、気づきという方法によって捏造を停止させる訓練でもある

・捏造が、生命を束縛している、足枷であり、自由を奪い、輪廻に縛り付ける。
・捏造が、智慧が現れない理由
・長老の解説は厳しいですが、問題点が明確です

・次に具体的にどう捏造しているのかが「顛倒」の内容
・出典は、増支部経典、四集、第5 赤馬品「顚倒経」Vipallāsa sutta

光明寺蔵経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/an/an04/an04c049.htm

・顛倒(あべこべ)が起こる場所は3つある
➀概念の顛倒〔saññā-vipallāsa〕
②心の顛倒〔citta-vipallāsa〕
③見解の顛倒〔diṭṭhi-vipallāsa〕

・それぞれの段階(場所)で4種類【常楽我浄】の間違いがある
❶常住(変わらない)
❷楽(価値がある)
❸我(私がいる)
❹浄(肉体はキレイ)

・これからの説明は、もっと厳しくなります
・打ちのめされます

・六根にデータが触れた瞬間に、感覚があり、概念が起こります
・この概念が起きた時点で、すでに顛倒(捏造)しているとお釈迦様は言っているのです
・次に概念データをまとめて認識(知識)します。ここでも更に顛倒している
・そして認識から見解(思考)を作ります。ここでも更に顛倒することになる
・ああ、難しい

・顛倒の一例
・耳に「カァー、カァー」と音が触れます
・「カラスだな」と認識します
・「うるさいな、またゴミでもあさりに来たかな」と思います
・この認識過程で、すべて顛倒が起こっているというのです

・耳に音が触れる。高音、音程、リズム、音量、鳴き声などの概念が生まれる
・概念を総合し、過去のデータや経験と照らし合わせ「カラスだ」という決める。これが認識
・「カラス」のイメージなどで、「うるさい/迷惑/あっち行け/追い払わないといけない/誰かゴミ出しをちゃんとしてないな」などの思考が働く
・認識過程(3ステップ)において、常楽我浄(4種類)の顛倒が起こる

・もっと厳しいのが
・触れた瞬間に、「ある」と思うこと自体が顛倒だということ
・「ある」と認識することが顛倒だとお釈迦様が説かれています
・これは厳しすぎる~と思ってしまいます

・物事やデータが❶「ある」と認識した時点で、
・机がある/花がある/人がいる/私がいるなど認識した時点で、
・❷すでに価値も生まれ、❸自我意識もあり、❹自我を守る、自分の肉体をキレイに感じる
・これは........なんとも

・お釈迦様はとんでもなく厳密に説かれています
・驚くべき厳しさです
・すべての認識は間違っている、そう言っているみたいです
・全否定されているようさえ思えてしまいます

・何かを知ったら、「はい、それは間違い」
・次に何かを知ったら、「はい、それも間違い」
・また知ったら、「はい、それもダメ。間違い、何もわかっていない。ハァ~」
・そんなように追い詰められた感じがするほどです

・テキストには、とても読みやすいように解説れていますが
・内容としては、糾弾されているような感じもます
・仏教のことを何も分かっていなかった、知らなかった、降参します、お手上げといったふうに

・「はい、それ捏造」と言われても
・認識を止めることはできません
・眼を開けていれば、絶えず何かが見えています
・ということは、ずっと捏造/顛倒しっぱなしということになります
・それで「オレは仏教を知っているんだ/本もたくさん読んだ/瞑想も頑張っている/いろんな経験もした/経験も長い/偉いだろ」とか思ったりしているなら
・今回の捏造の説明を読むと、恥ずかしくなって、穴が合ったら入りたくなります
・それで終わりません、その「恥ずかしい」と思っている自我意識さえも捏造により起こっている現象なのですから....

・お釈迦様は、いったい何者なのか恐ろしくなります
・この生命の「捏造」を止めてみなさい、その方法は気づきだと教えています
・テキストの長老の解説でも、お釈迦様が教えられた通り修行すれば、捏造は止めらえる、顛倒はなくなる
・預流果になれば「見解の顛倒」は消える、しなくなるということです。※有身見、戒禁取、疑という煩悩が消える
・つまり苦しみをなくせる、もう二度と苦しみを作らない、幸福になれる
仏道は苦しみをなくす方法ということです。安心してください
・また個人の実践は、一歩ずつ進みますので大丈夫です
以上

今回はちょっとテキストが超難しく、身震いするぐらい厳しい内容だと感じました。テキストは読みやすいですが、厳しいと感じたことをレポートにまとめてみました。理解が伝わるか不確かですが、長老がいつも指摘する「妄想することをやめてみなさい」の真意を、お釈迦様が更に厳密に指摘し、生命であるなら皆がビビッてしまうような内容だと思いました。「捏造するな(捏造を止める)」こんなことが言えるのは、唯一お釈迦様しかいてないだろうなと思います。しかし、とても感動しました。おわり

このテキストを読んだことがある方、もし感想などよければお聞かせください。また関心のある方は、また読書会にもご参加ください。気軽な勉強会の予定でしたが、今回は冷や汗が出るような内容でした(個人的にはスリリングで楽しかったですが)。

ご参加いただいた皆様、ありがとうございました!

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

動画「考える」ことについて➀~④ |2022年10月23日 関西月例冥想会

みなさま

動画の公開が遅れに遅れ、大変申し訳ありません。

 

「考える」ことについて①

youtu.be

 

「考える」ことについて②

youtu.be

 

「考える」ことについて③

youtu.be

 

「考える」ことについて④

youtu.be

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|4/22(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」

 

みなさま

今回は10名の方が参加しました。

 

今回の読書会の時間が短いので、第1章だけ読みました。

第1章はこの本のメインではなく、まだ背景のところです。

 

今回の読書会(第1章)の結論は下記の太い朱字で先に示します。

人間は自分の願望だけ叶えば、その後のことやその他のことは考えない。

学校では道徳の授業があるが、「正しい生き方」が教えられてない。

問題が起こってはじめて宗教に走る。しかし、宗教も「あべこべ」。

宗教と世間一般の「あべこべ」の原因は「非論理性」。

仏教はあべこべではなく、ありのままに知る方法を教える。

 

レポートは長文になりますが、よければ読んでみてください。

 

▼ 2023/4/22(土) 関西ダンマサークル「zoom読書会」レポート

・接続確認

・慈悲の瞑想
・読書会

今回のテキスト「あべこべ感覚」(サンガ)※電子書籍なし

https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4901679716/jtheravada-22/

・話し合い

・廻向の文

 

1章「宗教 VS 世間」という対立

この本は「あべこべですよ」という結論。

皆があべこべ(さからさま)の感情で生きている。

例:人生は苦しいものだが、皆は「人生は楽しい」と思っている。

 

今の日本では便利だが、何となく苦しかったり、不安だったりしている。

「あべこべ」が生きにくさの原因。

「正しい生き方」が宗教と学校で教えられてない。

 

他の国は、ある程度は宗教が文化として社会に根付いている。

日本では一般社会と宗教をはっきりと区別している。

宗教の教えは、少しも日本人の中に浸透してない。

 

学校も精神や心について教えない。

道徳の授業はあるが、日常社会のマナーとルールのことである。

例:電車ではお年寄りに座席を譲りましょう、公園にごみをポイ捨てするのはやめましょう、などなど。

 

正しい生き方を教えるのが道徳。

道徳とは、本来は「幸福に生きる」という、すべての生命の切望を実現できる正しい生き方のことである。

マナーは場所によって違う。それは道徳ではない。

 

道徳を守ることはよいことかもしれないが、それほど必要に迫られていないので、そのうちやると思われる。

でも「そのうちやります」は永遠にやらない。

 

世間では欲を満たしながら長生きをすることが正しい生き方だと思っている。

道徳は普段の生活には登場しない。

 

論理・道徳に説得力を感じない。

「とことん儲けなさい」「金持ちになりなさい」「ライバルに勝ちなさい」などと言われると、皆が賛同する。

でも「嘘をつくな」「敵も許すべきだ」などという話は、疑問に思われる。

 

人間の本音は自分の願望だけ叶えば、その後のことやその他のことは考えない。

「殺したい」という自分の願望しか考えられない。

 

自分の願望さえ叶うなら、いかなる残酷なことにも労を憎しみないというのは人間の本音。

「自分さえよければいいや」という考えは、排除や差別を生みだす。

例えば、罪を犯した人とその家族が周りの人達に排除される。

 

道徳を気にしない為、世の中が苦しくなっている。

皆が自分勝手に自分の都合で生きている。

 

普段は宗教の話はあまり興味がないが、問題が起こってはじめて宗教に走る。

大変なことが起こらない限り、宗教と関わらない。

 

世の中には色々な宗教があって、この世のことや生き方について、色々なことを語っている。

ヒンドゥー教では、「この世の中は幻想・幻覚である」と説く。

イスラム教やキリスト教も「この世は本物ではない」と言う。

 

「この世は仮の世界」と言われても理解できない。

一般の人にとってはこの世が本当のこと。

宗教の考えと世間一般の考えは「あべこべ」なのでかみ合わない。

 

宗教と世間一般の「あべこべ」の原因は「非論理性」。

宗教にはたくさんの言葉がある。

しかし論理的に説明されてないので、理解できない。

 

般若心経に書いてある「一切皆空」は「世の中は空だ」「世の中は存在しないのだ」という意味。

でも「一切皆空」はお釈迦様の言葉ではない。

 

▼補足説明

・「一切皆空」はお釈迦様の言葉ではない

・「一切皆苦」はお釈迦様の言葉です

 仏教では「すべては幻だ」とは言わない。

「私(自我)はない、あるのは因果法則」と言う。

--------------

 

お釈迦様は「ただ生命は、情報・対象を、そのまま認識しないで、捏造して(パパンチェーティ)認識するのだ」と説く。

捏造することで、本当のことが分からなくなっている。

世の中が事実か幻かは関係なく、問題は捏造することにある。

「捏造」については次の章で詳しく解説する。

 

宗教には有名でもよく理解できないというような言葉はたくさんある。

論理的な証拠がないものは妄想。

 

お釈迦様は論理的で実際的なことを教える。

調べればわかることを説いているので、一般社会でも通用するもの。

お釈迦様の論理性をもってすれば、宗教VS世間一般という対立は解消する。

 

論理的でなければ、発展しない。

論理的に証拠を示せない世の宗教の教えはあべこべ感覚に基づく邪見である。

お釈迦様は人間に考えられる邪見は六二あると仰った。

現代の邪見は、全知全能の神を信仰することと、「我はお釈迦様である」と思っている教えと、神の考え方を真似ているものだけである。

 

日本では宗教を社会生活から切り離しているが、一方では、やけに真剣に信仰しているようである。

例えば、般若心経がうちわに書いてあったりする。

信じなければいけないものは嘘。

事実は信じる必要がない。

 

仏教は自由な宗教。

信じなければならないということはない。

世間一般の考えはあべこべなので、最初からすべてお釈迦様の教えを理解できるはずもない。

少しずつ吸収していけばいい。

分からないことは保留しておいてもいい。

しっかりと修行を続けていけば、最終的に目指す「解脱」まで、論理的に着々と進んでいる。

 

世の中の宗教が「あべこべ感覚」に基づいた思考で、「私はいる、私は死なない」という実感しかもたないので、発展させない。

論理的に考えることで発展できる。

次の章から紹介していくのは、成功と幸福に導く、お釈迦様の道。

あべこべ感覚でものごとをさかさまに理解していたら、幸福になれない。

ありのままに知る方法を教えるお釈迦様の道は「勝利の道」。

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|5/15(月) 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

 

みなさま

いつもお世話になっております。

 

 関西ダンマサークル「zoom茶話会」を行いました。11名の方がご参加くださいました。誠にありがとうございました。

 

 準備していたテキストのうち、ひとつを紹介し、そのテーマについて皆さんにご意見・ご感想をお聞きしました。紹介したテキストは添付いたします。短い内容ですが、大事な教えが説かれていると思います。簡単な要約をレポートにしたいと思います。よければ読んでみてください。

 

▼5/15(月)20時 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

・農業を営んでいる婆羅門(地主)の話

・お釈迦さまと毎日のように短く会話をする

・収穫ができたら友であるお釈迦さにお布施の約束をする【→信頼関係を作る】

・収穫前夜、一夜にして自分の財産である農作物が雨で流され、すべてを失ってしまう

・耐えがたい苦しみを感じる

・お釈迦さまが現れ、婆羅門に質問をする【→助けてあげる】

・「なぜ悲しみ(苦しみ)が起こったのかわかりますか?」<苦とは何か/苦聖諦>

・婆羅門は「わからない」と返答する

・お釈迦さまは「期待(渇愛)があったからです」と答えを教えてあげる<苦しみの原因/苦集諦>

・偈を説き教える<苦滅諦/苦滅道諦>

・婆羅門は預流果に覚る

 

渇望(期待)から悲しみが生れる。

渇望から恐れが生れる。

渇望から解放されたものには、

悲しみも恐れもない

 

Taṇhāya jāyatī soko,

Taṇhāya jāyatī bhayaṃ;

Taṇhāya vippamuttassa,

Natthi soko kuto bhayaṃ.(Dhp 216)

 

・シンプルな物語の教え

・期待がなければ、苦しみ(悲しみ/恐れ)はない

・単純な論理

 

・しかし

・「はい、期待(妄想)をやめてください」と言われてもやめられない

・無常ということを知らない(無知)なので、瞬間 瞬間に期待をしてしまう

・生きることは、期待することの連続でしかない

・期待を叶えることが生きることだと勘違いしてしまう

・人生が順調にいけば、それなりの期待をすることになる

・人生が不調になればなるほど、現実離れした期待を抱いてしまう

・若者は明るい未来を期待して、毎日を一生懸命に生きる。

・夢や目標に向かって走っていく→期待を膨らませる

・高齢者は、どんどん不自由になり思い通りにならないことで不機嫌・不満(苦しみ)を感じる

・しかし、不満を捨てれず、違った期待を抱くようになる(現実離れ)

・理不尽なのは、期待が叶ったとしても、次の期待をしてしまうこと

・期待が叶わなかったら不満を感じ、また違った期待をしてしまうこと

・普通に生きていたら「期待しない」ということは無理

・だけど、苦しみの原因は期待(渇愛)であるという

 

・問題点は、無常を理解していないこと

・そもそも、変わらない何か(ずっと続くもの)があると勘違いしていること

・だから期待してしまう、あるいは期待が現実離れしていく(苦しみが増える)

・自己という認識、五取蘊が無常であることを発見することができれば

・期待する意味と理由がなくなる

・悲しみと恐れ(苦しみ)が消える

 

というような理解として、僕は物語を受け取りました。

 

「期待しない/期待はダメ」と言われても、理解したとしても、それはその通りなのですが、無知のままで期待しないことはできません。

 

期待してしまう構造を理解し、新しい認識・気づきをもって、構造を変化させないと、期待しない状態にはならない。

 

まず、いまある期待は、現実的なのか、必要なのか、正しいのか、次に期待とは何なのか、現実(認識)はどうなっているか、そんな順番(戒定慧)で解決していくものだと思いました。

以上

 

◆参考資料

巻頭法話仏陀が発見された真理——渇愛

https://j-theravada.com/dhamma/kantouhouwa/kantou123/

 

根本仏教講義|悟りを開いた人たち③

一夜で財産を失った農夫

https://j-theravada.com/dhamma/kougi/kougi-142/

 

ジャータカ物語|老夫婦の話

https://j-theravada.com/jataka/jataka013/

 

生きとし生けるものが幸せでありますように

レポート公開|4/8(土) 関西ダンマサークル「zoom茶話会」

 

みなさま

失礼いたします。

 

 昨日の関西ダンマサークル「zoom茶話会」は11名の方が参加されました。物語を読んで、皆さんの解釈・意見・理解を述べて、いろいろと話をしました。こんな感じの話し合いもありかと思いました。面白かったです。次回の茶話会は、どうなるかわかりませんが。

 

 簡単ではありますが、個人的な解釈と感想のレポートです。よければ読んでみてください。また感想などあれば、どんなことでも構いませんので教えてください。反論・異論でも結構です。

 

 

▼4/8(土)茶話会で読んだ物語

注意:物語は事実なのか分かりませんが、物語が教える内容・意味から、私たちが何を学び取れるかという立場で読みました。

 

①「黒夜叉女の物語」

・ダンマパダ 第5偈の因縁譚

・黒夜叉女:Kāḷī yakkhinī

・夜叉は、餓鬼ではなく天界の次元

・この物語の黒夜叉女は、「鬼子母神(訶梨帝母)」と結びついているという説があります。

・物語では、黒夜叉女は預流果に悟ってから女友達(人々)のお供え生き、その代わりに天候について人々にアドバイスし、以来豊作・五穀豊穣の神として現在にも信仰されているとか。

 

・世の中には、怨みを止める方法がない。

・怨みを抱いてしまったら、怨み返すしかでない。

・怨みを止める方法を真理を知り尽くしたブッダが教える

・この物語の教訓は、怨みを繰り返さないこと、怨みは怨みを捨てることで収まるということ

・怨みが自分にとって苦しみであることを自覚する

・気づくことで怨みを捨てられる

 

・参考(英文):Eugen Watson Burlingame「Buddhist Legends」vol.1~3

https://www.ancient-buddhist-texts.net/English-Texts/Buddhist-Legends/01-04.htm

 

・参考(読み物):『ダンマパダ』と教育(2)【吉田 榮作】

https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=79&file_id=22&file_no=1

 

・参考(動画):「怨みの輪廻が果てるまで」ダンマパダ(法句経)5偈|スマナサーラ長老のパーリ経典解説

https://youtu.be/M7LjcdZFgGU

 

 

②「小ダンマパーラ前世物語」

・ジャータカ物語 358番(Culla dhamma pāla jātaka)

・ダンマパーラ王子の話

https://j-theravada.com/jataka/jataka003/

・登場人物によって、役柄が決まっている

・王は悪、処刑人は無知、妃は慈悲、ダンマパーラ王子(7か月の赤ちゃん)は忍耐

 

・悪を行えば、更なる悪を犯してしまう。止まらない

・無知であれば、自分の行為について善悪判断できず、他人に言われたま行動する

・無知な人は流され、苦しむ結果になる

・自分で何をしているか理解していない

・生きるためには慈悲をが必要

・仏教は忍耐を説く

・忍耐するとは、常に気づきあること

・忍耐とは、生半可なものではないと知る

・悪や無知を止めるためには友が必要

・この物語の教訓は、悪と無知は恐ろしい、慚愧がないことは怖い。

 

※参考(英文):The Jataka, Vol. III: No. 358.: Culladhammapāla-Jātaka.

https://www.sacred-texts.com/bud/j3/j3059.htm

 

 

③「物音前世物語」

・ジャータカ物語 322番(Daddabha jātaka)

・ダダーン!物語

https://j-theravada.com/jataka/jataka061/

 

・音を聞いてウサギが「大地が壊れる」と勘違いする

・早合点、早とちり、早のみこみ、よく確かめないこと、予断など

・それを見た他の動物たちも、ウサギの言葉を信じてしまう

智慧のあるライオンが「本当に大地が壊れるということがあるのか?」と理性を働かせる

・理性によって、原因を確かめる

・原因を確かめると、椰子の実が落ちた音を聞いて、自分の妄想で勘違いしたことを知る

・皆に事実を教えて、皆が落ち着く

・何事も事実を確かめて行わなければ、結果が良くない。大きな苦しみを作ってしまう。失敗する

・現代では、詐欺に引っかかること、カルト宗教に引っかかること、私は悟りましたという人に騙されないこと、陰謀論を信じてしまうことなど

・人の話を鵜呑みにしないこと、立場や見方によって事実はそれぞれ異なること

・自分の見方もひとつの偏見だと知ること(自分も疑う)

・この物語の教訓は、事実を確かめること、情報に対して早合点しないこと

・もう一つの教訓は、外の刺激(情報)に対して、私たちは捏造していること。捏造を止める必要があること

・下記はジャータカにある偈文、とても理性的でカッコイイので紹介

 

ことばの正しい認識に到達せずして

他人の音声に随い行き

〔他人の〕叫びを第一とする愚か者

そは他人に頼るばかりの者なり

 

規律を守り

智慧もて〔惑いを〕鎮めて楽しみ

〔諸悪を〕制し厭離する賢者は

他人に頼るばかりの者にあらざるなり

 

※参考(英文):The Jataka, Vol. III: No. 322.: Daddabha-Jātaka.

https://www.sacred-texts.com/bud/j3/j3023.htm

 

※参考(動画):Follow the Leader | Daddabha Jataka | Animated Buddhist Stories https://youtu.be/gj3J31ThWlk

以上

 

生きとし生けるものが幸せでありますように